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岩屋城 (淡路国)

岩屋城(いわやじょう)は、淡路国津名郡(現在の兵庫県淡路市)にあった日本の城跡。別名・俎板山城。

岩屋城
兵庫県
別名 俎板山城・松尾城
城郭構造 山城
築城年 平安時代末期
主な城主 (安宅宗景)、鈴木孫市
児玉就英
廃城年 1594年文禄3年)
遺構 曲輪
位置 北緯34度36分06.1秒 東経135度00分02.9秒 / 北緯34.601694度 東経135.000806度 / 34.601694; 135.000806 (岩屋城)座標: 北緯34度36分06.1秒 東経135度00分02.9秒 / 北緯34.601694度 東経135.000806度 / 34.601694; 135.000806 (岩屋城)
地図
岩屋城
(テンプレートを表示)

概要

淡路島北端の岬、松帆の浦の西に位置する松尾山(別名、俎板山)に築かれた山城であった。1960年代までは南の大谷川や松帆浦等に遺構が残っていたが、戦前からの砂利の採取や風水害により消滅した。付近からは瀬戸内海播磨国から和泉国まで一望することができ、海上交通を押さえる要所であった。南東の三対山(城山)には別の岩屋城(絵島ヶ丘城)の城跡が残っている。

沿革

源平合戦の時代には、大宮蔵人(源実春)が松帆の浦を領していたという。永禄年間には安宅八家衆と呼ばれた(安宅宗景)(1558-1570年)が岩屋城主となっていた。

天正年間(1573~1592年)になると石山合戦に伴って織田氏毛利氏両軍による海戦が起こった。このため、(安宅氏)は毛利氏の侵攻を受けた。この頃、岩屋城には鈴木孫市[1]児玉就英が入城している[2]

天正9年(1581年)には羽柴秀吉淡路侵攻を受け毛利方の菅達長淡路十人衆)が守っていた岩屋城は落城した。天正10年(1582年)の本能寺の変により菅達長は岩屋城を奪還したが、数日で再奪還されている。天正11年(1583年)に秀吉の命により赤松氏の支族であった播磨国の旧(福中城)主間島氏勝が淡路岩屋城3000石の城主となった[3]。その後、間島氏は改易されたようで、文禄3年(1594年)、淡路(志知城)の加藤嘉明に岩屋・郡下内間島分1700石が増封されている[4]

参考資料

脚注

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  1. ^ 脇本氏文書
  2. ^ 陰徳記
  3. ^ 太閤記
  4. ^ 近江水口加藤文書

関連項目

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