概略
順徳天皇皇子・忠成王は、順徳天皇流刑先の佐渡島で流刑先へ供奉した女房・従三位(藤原清季)卿女を母として誕生した。その後経緯不詳ながら上洛し、宝治元年(1247年)2月に平経高の計らいにより密かに元服したとされる[1]。この後「岩倉宮」また「広御所宮」を名乗ったという[2]。また、それ以前に六条宮の称号を継承していたとする説もある[3]。
忠成王は弘安2年に没したが、一子尊忠は後に梶井門跡の権僧正となり、「入江宮」「広御所宮」「岩倉宮」を名乗ったという[4]。また、「石蔵三郎宮」と称される人物が永仁年間に忠成王の異母弟である四辻宮善統親王との間で同親王が継承した七条院領の所有権を巡って争いを起こしており、岩倉宮側は持明院統の、四辻宮側は大覚寺統の支援を受けて鎌倉幕府をも巻き込む訴訟となったという。この人物は後に臣籍に下った源彦仁(彦仁王)と推定される[5]。
宮内庁の資料『皇室制度資料』では岩倉宮を宮家の一つとすることに対して慎重な見解を取っている。
由来
「岩倉」「広御所」とも宮号の由来は居所か領地に縁があると推測されるのみで、詳細は未詳である。