山里 忠徳(やまざと ただやす、1848年〈嘉永元年〉6月26日 - 1920年〈大正9年〉6月19日[1])は、日本の武士、武術家。流派は(東軍新刀流剣術)、宝蔵院流高田派槍術、(一心流薙刀術)、日置流弓術。特に剣術と槍術で有名であった。
経歴
幕臣の山里建之助の子として江戸で生まれる。生家は東五軒町(東京市牛込区東五軒町)[1]。
1877年(明治10年)、巡査として西南戦争に従軍。戦後、警視庁撃剣世話掛に就任した。1888年(明治21年)6月時点の階級は警部補で、本郷警察署勤務[2]。
その後、宮内省、学習院や旧制第一高等学校などで剣術を指導した[1]。
1918年(大正7年)、旧制第一高等学校の撃剣部(剣道部)で、宝蔵院流高田派槍術と一心流薙刀術を指導した。これにより、宝蔵院流高田派槍術と一心流薙刀術は失伝を免れ、現在まで残っている[1][3]。