来歴
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生家は増野氏。大組・山田氏(禄高100石)の養子になって家督を継ぐ。安政元年(1854年)相州警衛総奉行手先役、安政3年(1856年)徳地代官、万延元年(1860年)遠方方、文久3年(1863年)奥阿武代官、元治元年(1864年)郡奉行を歴任。
安政2年(1855年)7月、西洋式鉄製大砲の鋳造方法を習得するため、反射炉築造に成功していた佐賀藩に派遣されるが交渉は失敗した[1](ただし、その後も他の藩士が交渉に赴き、最終的に萩反射炉が築造されている)。
文久2年(1862年)政務座・学習院用掛のとき京都にあり、尊王攘夷運動に参加した。ただし藩政においては中立派に属していた。長州藩では元治元年(1864年)の第一次長州征討を期に討幕派(長州正義派)が勢力を弱め、恭順派(俗論派)が台頭していたが、同年の正義派によるクーデター(功山寺挙兵)によって再び討幕派が藩政を握ると、慶応元年(1865年)番頭格・政務座役に就任。参政首座となって、木戸孝允とともに藩内における指導的立場となり、兵学教授として軍備拡張を推進するなど藩政刷新に尽力した。しかし、慶応3年(1867年)に明治維新を前に病没。
登場作品
脚注
- ^ 萩反射炉 - 九州・山口の近代化産業遺産群 世界遺産登録推進協議会ウェブサイト
外部リンク
- 山田宇右衛門 - コトバンク