山本 勝巳(やまもと かつみ、1973年3月5日 - )は、福岡県博多区出身(生まれは静岡県菊川町[1])の元レーシングドライバーである。西南学院高等学校卒業、西南学院大学経済学部国際経済専攻中退[1]。
略歴
デビュー
カートでレースを始め、1992年にFJ1600に参戦。またこの年には、テレビ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の企画「めざせ!ポールポジション」に参加。その中には土屋武士もいた。
F3/F3000
1993年に、全日本F3選手権に参戦。1994年にはチームWTSよりドイツF3選手権Bクラスに参戦[2]。
1995年より全日本F3000選手権に参戦。第5戦の菅生で2位表彰台を獲得。なお、このレースは1位が高木虎之介(初優勝・当時21歳)、2位が山本(当時22歳)、3位が中野信治(当時24歳)と当時20代前半の3人がレースを盛り上げ、星野一義や鈴木利男などベテラン中心であった国内レース界において新時代の到来を予感させた。
F1
同年のパシフィックGP(英田)と日本GP(鈴鹿)に新進チームの「パシフィック」より参戦することとなったが、海外のトップフォーミュラにおける実績がなかったことから、経験不足等を理由にスーパーライセンスが発給されず、参戦を断念した。なお、パシフィックGPの前にイギリスのシルバーストーン・サーキットでテスト走行をした際、パシフィックチームのマネージャーであるマーク・ギャラハーは「思っていたよりずっと優秀なドライバーだった。ラバッジやモンテルミーニよりはるかに速かったし、我々の指示を的確に守っていた」と語り、山本のドライビングを高く評価していた[3]。
FN/JGTC
1996年は全日本F3000を引き継いだフォーミュラ・ニッポンに童夢より参戦。1997年には、フォーミュラ・ニッポンと全日本GT選手権(現・SUPER GT)のGT500に童夢よりフル参戦。
1998年は全日本GT選手権に参戦するも、5戦に出走して脇阪寿一と交代。最終戦の菅生にGT300でRACING PROJECT BANDOHよりスポット参戦するに止まり、このレースを最後にレース活動を休止。現在は故郷に戻り家業に就いている。
レース戦績
- 1991年 - カートSL福岡シリーズA2クラスチャンピオン
- 1992年 - 関西や九州のFJ1600(8戦3PP)
- 1993年 - 全日本F3選手権(Katsumi Yamamoto #45 ダラーラF393・無限MF204)
- 1994年 - ドイツF3選手権Bクラス(ダラーラF393・オペル) (総合26位・クラス8位・最速ラップ1回)
- 1995年 - 全日本F3000選手権(X-JAPAN Le Mans #25 レイナード95D・無限MF308)(シリーズ9位)
- 1996年 - フォーミュラ・ニッポン(TEAM ANABUKI 童夢 with 無限 #2 童夢F104i・無限MF308)(シリーズ17位)
- 1997年
- フォーミュラ・ニッポン(NAVI CONNECTION RACING #28 レイナード97D・無限MF308)
- 全日本GT選手権・GT500クラス<Rd.2 - 6>(無限X童夢PROJECT #18 avex童夢無限(NSX))(シリーズ16位)
- 1998年
全日本F3選手権
年 | チーム | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1993年 | (Katsumi Yamamoto) | 無限 | SUZ 10 | TSU 10 | FSW 16 | SUZ Ret | SEN 13 | TAI 14 | MIN | SUG Ret | SUZ Ret | SUZ 8 | NC | 0 |
全日本F3000選手権/フォーミュラ・ニッポン
年 | チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995年 | X-JAPAN RACING TEAM | SUZ Ret | FSW C | MIN 4 | SUZ Ret | SUG 2 | FSW Ret | TOK Ret | FSW 8 | SUZ Ret | 9位 | 9 | |
1996年 | TEAM ANABUKI 童夢 with 無限 | SUZ 9 | MIN Ret | FSW 10 | TOK Ret | SUZ Ret | SUG 6 | FSW Ret | MIN 14 | SUZ Ret | FSW Ret | 17位 | 1 |
1997年 | NAVI CONNECTION RACING TEAM | SUZ 10 | MIN Ret | FSW Ret | SUZ 9 | SUG Ret | FSW 12 | MIN Ret | TRM 14 | FSW 7 | SUZ Ret | NC | 0 |
全日本GT選手権
人物
- レースとの関わりは、ゴーカートがきっかけである。遊園地のゴーカートを好きになった山本が、小1の時に父からカートレースの存在を教えられ、中3の時に9年越しの貯金でカートを購入した[1]。
- 高校の頃、ヨット部に入り国体強化選手になっている。しかし、カートに専念するためにヨットを断念した。
- 1992年にFJ1600にデビューした際、父も一緒にFJ1600にデビューを果たしている[2]。
- 1994年にドイツF3選手権Bクラスに参戦した際 チームWTSを選んだ理由として、「チャンピオンチームである事と、チームを率いるウィリー・ウェーバー[4]の優秀なマネージメント能力とF1関係者の強いコネクション」だとしている[2]。
- 1995年8月4日放送のテレビ番組『とんねるずのハンマープライス』で、全日本F3000選手権開幕戦・鈴鹿でレース中にクラッシュして大破したマシンのコックピット及びパーツの一部と、第8戦・富士でチームのオリジナルジャンパーを着用してピット内でレース観戦できる権がオークションにかけられ、111万円で落札された。
- 1995年10月半ばにF1のパシフィックのテストに参加。パシフィックGP(英田)と日本GP(鈴鹿)へのスポット参戦を目指したが、スーパーライセンスは発給されず参戦は叶わなかった。