略歴
加賀国大聖寺城主・山口宗永の次男として誕生。父・宗永と兄・修弘は慶長5年(1600年)8月3日、関ヶ原の戦いの前哨戦において、東軍前田利長の前に籠城したが大聖寺城を落とされ戦死した。弘定は父の遺志を継いで、豊臣秀頼に仕え、大坂城に入城することになる。大坂の陣では義兄・木村重成隊に属し奮戦したが、若江の戦いで井伊直孝隊に討ち取られた。
弘定と兄の修弘の名前には、大内氏の通字である「弘」が含まれている。織田氏・徳川氏に仕えた山口重政に始まる大内氏庶流の(牛久山口氏)も通字として「弘」を使っているが、彼らとの関係は定かではない。弘定を討ち取った井伊勢の先鋒に山口重政・重信・(重克)親子が加わっており、重信は木村重成に討ち取られ、重克もまたそこで戦死した。また、木村重成の子孫は、牛久藩に召し抱えられたという説がある。