山ノ上碑[1][2](やまのうえのひ/やまのうえひ、山上碑[3][4])は、群馬県高崎市山名町にある古碑。隣接する山ノ上古墳(山上古墳)と合わせて国の特別史跡に指定されている(指定名称は「山上碑及び古墳」)[4]。
概要
「辛巳歳」は天武天皇10年(681年)建碑と考えられており、上野三碑の中では最古である。
高さ120cm・幅50cm・厚さ50cm[6]の輝石安山岩に4行53文字が薬研彫りで刻まれている。書体は古い隷書体の特徴が見られる。
山ノ上碑は墓誌であり、隣接する山ノ上古墳(下記参照)の(墓誌)であると考えられている。その内容から、放光寺の僧侶・長利(ちょうり)が母の黒売刀自(くろめのとじ)のために墓を建てたことがわかり、墓誌としても日本最古の例である。「放光寺」は佐野の地にあると考えられてきたが、最近の発掘調査により、前橋市の山王廃寺跡にあった寺院の可能性が高くなった[7]。
刻まれている文のほとんどが、長利の父母両系の譜を述べており、古系譜の史料としても貴重である。
また、山ノ上碑に刻まれている「佐野三家」は金井沢碑の「三家」(ミヤケ、屯倉)であると考えられてきたが、周辺の発掘調査により、史料上知られていないミヤケの存在が確実視されてきたため、「佐野三家」と「三家」は同一でないという可能性も出てきた。
1921年(大正10年)3月3日に「山上碑及び古墳」の名称で国の史跡に指定され、1954年(昭和29年)には国の特別史跡に指定されている。
碑文
山ノ上碑の碑文は以下の通り[8]。
辛巳歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒賣刀自此
新川臣兒斯多々彌足尼孫大兒臣娶生兒
長利僧母爲記定文也 放光寺僧
読み下し
辛巳歳集月三日に記す。佐野三家(さののみやけ)を定め賜える健守命(たけもりのみこと)の孫の黒売刀自(くろめのとじ)、此れ新川臣(にいかわのおみ)の児、斯多々弥足尼(したたみのすくね)の孫の大児臣(おおごのおみ)に娶(とつ)ぎて生める児の長利僧(ちょうりのほうし)が、母の為に記し定むる文也。放光寺僧[8]。
現代語訳
辛巳年10月3日に記す。佐野屯倉をお定めになった健守命の孫の黒売刀自。これが、新川臣の子の斯多々弥足尼の孫にあたる大児臣に嫁いで生まれた子である長利僧が母(黒売刀自)の為に記し定めた文である。放光寺の僧[8]。
系譜
多々弥足尼 | 健守命 | ||||||||||||
新川臣 | 不詳 | ||||||||||||
大児臣 | 黒売刀自 | ||||||||||||
長利僧 | |||||||||||||
考証
金井沢碑に刻まれた三家氏、他田君氏、礒部君氏、物部君氏のグループは、同族であり、かつて佐野屯倉・緑野屯倉の経営に関与した中型前方後円墳被葬者クラスの末裔であった可能性がある[9]。
山ノ上碑には、佐野屯倉の初代管理者の健守命、「孫」の黒売刀自、その子の長利僧の直系系譜が記載されている。「孫」は「子孫」とする義江明子の説が有力であることから、健守命は長利僧を含めると祖父・孫よりも年代の広い関係に位置づくことになる。黒売刀自の供養(死亡)を 681年頃、子の長利僧がその頃50歳と仮定して、5代遡上すると、健守命(佐野屯倉初代管理者)の活動時期は6世紀後半となり、欽明天皇の時代と重なる[9]。
屯倉設置者として「命」の尊称を冠して「始祖王」に位置づけられた健守命の墓は、6世紀において地域最上位の墳形であった前方後円墳であったとみなすのが自然であり、佐野屯倉が存在した領域(群馬郡・片岡郡(多胡郡))における前方後円墳は、烏川東岸では(漆山古墳)、烏川西岸では(山名伊勢塚古墳)が存在する。漆山古墳と山名伊勢塚古墳は、墳丘の規模(60?70m級)、烏川西岸に産する館凝灰岩の切石を用いた精美な横穴式石室が採用され、玄室には凝灰岩切石を用い、羨道部には自然石(円礫)を用いている点が共通しており、「兄弟墳」と判断できる[9]。
漆山古墳がある烏川東岸の広大な平野は、4世紀後半の古墳であり東日本最大級の古墳である浅間山古墳が存在していることからもわかるように、古墳時代前期からの伝統的農業地帯であった。しかし、5世紀末から6世紀前半に2回発生した榛名山噴火の大規模な洪水被害の影響で、一度広域用水網が破綻した可能性が考えられる。漆山古墳の被葬者は、屯倉設置にともなって獲得された新しい治水技術の投入によって用水系と水田復興を推進したと考えられる。また、そうした技術や人的資源を誘引するために、進んで中央と関係を深めた可能性もある。一方、山名伊勢塚古墳の被葬者は、5世紀までほとんど手付かずであった烏川西岸の丘陵部を新たに開発したと考えられる[9]。
健守命は、佐野屯倉の設置と運営に寄与した漆山古墳・山名伊勢塚古墳被葬者の世代を英雄視し、神格化したものであり、後の三家氏の始祖王にほかならなかった。このため「命」の称号が冠されたと推定される[9]。
長利が父系・母系双方の系譜を記載した理由は、長利の母方の高祖父である健守命が、欽明天皇の時代に屯倉が設置された時に管理を任された初代であり、その孫の黒売刀自が大児臣と婚姻した事により、長利が支配権を継承したことを示すためと考えられる[10]。
また、佐野屯倉は片岡郡(多胡郡)と群馬郡の2つに跨って存在しており、農業経営だけでなく倉賀野津を用いて水運も行っていたと考えられる[10]。
参考画像
山ノ上碑の覆屋
駐車場
脚注
- ^ 「山ノ上碑(やまのうえのひ)」『国史大辞典』 吉川弘文館。
- ^ 「山ノ上碑(やまのうえのひ)」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。
- ^ 「山上古墳・山上碑(やまのうえこふん・やまのうえのひ)」『日本歴史地名大系 10 群馬県の地名』 平凡社、1987年。
- ^ a b 山上碑及び古墳 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 「上毛三碑」とも。
- ^ 前橋市・高崎市教育委員会『平成26年度 前橋・高崎連携事業文化財展 東国千年の都 石を使って3万年-削る・飾る・祈る-』前橋市教育委員会、2015年。
- ^ 同廃寺跡の調査で、「放光寺」とヘラ書きされた瓦が出土したことによる。
- ^ a b c 山上碑及び古墳 - 高崎市、2020年8月10日閲覧。
- ^ a b c d e 若狭徹「立評をめぐる地方氏族の政治行動 : 群馬県における後期古墳の動態と上野三碑の建碑から」(PDF)『駿台史學』第165号、駿台史学会、2019年2月、75-99頁、CRID 1520009408042689536、ISSN 05625955。
- ^ a b 佐藤信『古代東国の地方官衙と寺院』(山川出版社、2017年)
関連項目
外部リンク
- 山上碑及び古墳 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
座標: 北緯36度16分37.5秒 東経139度1分40.0秒 / 北緯36.277083度 東経139.027778度