四代目 尾上 松助(おのえ まつすけ、天保14年2月29日〈1843年3月29日〉 - 昭和3年〈1928年〉9月5日)は、明治・大正に名脇役として活躍した歌舞伎役者。屋号は音羽屋。定紋は(抱き若松)。俳名に梅賀。本名は栗原 梅五郎(くりはら うめごろう)。
略歴
大坂生まれ。芝居衣装屋の子。2歳で父とともに江戸に下り、嘉永元年(1848年)松本錦升の門人となり、松本長助を名乗る。同年松本小勘子の名で江戸河原崎座で初舞台。師の死後、八代目市村家橘の門人となり、坂東橘五郎と改名。明治元年(1868年)、師の家橘が五代目尾上菊五郎を襲名したのにともない尾上梅五郎と改名。明治15年(1882年)新富座の『(夜討曽我狩場曙)』の梶原景時で四代目尾上松助を襲名した。
以後は師の五代目菊五郎、その子の六代目菊五郎と舞台を共にし、脇役として評価を上げて「名人松助」と呼ばれた。晩年は歌舞伎座や帝国劇場をつとめる傍ら、長老格として熱心に指導し、後輩たちから「ちゃん」(江戸弁で父親の意)のあだ名で敬愛されていた。
最大の当たり役は『与話情浮名横櫛』(切られ与三)の蝙蝠安で、十五代目市村羽左衛門の与三郎、六代目尾上梅幸のお富とならんでつとめた「源氏店の場」は近代歌舞伎の名舞台と称えられ、松助の蝙蝠安は余りの評判のためにわざわざブロマイドが販売されたほどであった。
ほかには、『仮名手本忠臣蔵』「四段目」の斧九太夫、『ひらかな盛衰記」の権四郎、『摂州合邦辻』「合邦庵室」の合邦、『義経千本桜』「すしや』の弥左衛門、『寿曽我対面』の鬼王などの時代物もよかったが、やはり松助の本領は世話物にあった。『忠臣蔵』「六段目」の判人源六、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)の家主長兵衛、『盲長屋梅加賀鳶』(加賀鳶)の雷五郎次・おさすりお兼、『東海道四谷怪談』の宅悦、『(天衣紛上野初花)』(河内山と直侍)の丈賀などが当たり役で、今日に伝わる型を残している。
人物・芸風
- 研究熱心で明治26年(1893年)『髪結新三』の家主を初めてつとめた際、劇評家の三木竹二に酷評されたことに発奮、人にこの役を初演した三代目中村仲蔵の舞台を思い出しもらっては、気のついたところどころへ走り書きを台帳に書き込む努力を重ねて役柄を自分のものにして、大正4年(1915年)に同じ役をつとめた時は辛口の劇評家・岡鬼太郎からこんどは絶賛された。
- 世話物はほとんど化粧をせずに素顔で舞台に立った。声は普段は小さかったが、いざ舞台に上がると実によい味を出していた。「型のない世話物のやうな芝居は、時の味でみせなけりゃァなりませんから、ちっとだって、意気を抜くことなんて事ァ出来やしません」(邦枝完二『松助芸談』)という本人の言葉には、その芝居に対する姿勢が凝縮されている。
著作
- 邦枝完二『名人松助芸談』興亜書院 1943
- 『松助芸談』青々堂出版部 1947
脚注
- ^ 三遊亭圓生『噺のまくら』小学館、2019年4月8日、133-138頁。