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略歴
尼子晴久の四男として誕生。天文23年(1554年)に月山富田城にて連歌会が行われた際に、産前祈祷会が執り行われたという記録があり、これが秀久のことを示していると思われる。
永禄5年(1562年)から毛利氏による出雲国侵攻を受け、最終的に月山富田城に籠城すると、秀久は宇山久兼・佐世清宗らを率いて菅谷口を守備し、小早川隆景らと戦うが一歩も引かず奮闘した。永禄9年(1566年)、兄であり当主・義久は降伏し月山富田城は開城。秀久も兄に従い安芸国に移送され、長きにわたり幽閉されることとなる。
天正17年(1589年)、幽閉が解かれると客分として毛利輝元に遇され、安芸国内に居館を構えた。以後毛利家臣として、豊臣氏による文禄・慶長の役にも従軍している。
慶長14年(1609年)12月2日、長門国阿武郡奈古において死去した[1]。子孫は後に佐近姓(又は佐古姓)を名乗り、福定村[4]へと土着した[5]。