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小笠原貞信(おがさわら ていしん、1853年(嘉永6年)2月 - 1903年(明治36年)2月18日[1])は、福島県出身の法律家、衆議院議員(第2回、第3回)。福島民報初代社長(在任:1892年 - 1896年)[2]。
略歴
1853年に二本松藩士である今江又兵衛の子どもとして生まれる。12歳の時に二本松藩士の小笠原是馬助の養子となる。1875年に上京し、翌年の9月に司法省法学校の第二期生として入学する。その後、1884年7月に修業年限8年(予科4年、本科4年)を終え、法律学士の称号を得る。検事試補となり、千葉始審裁判所に勤務し、1885年12月に検事として任命される。1886年5月に仙台始審裁判所で判事に任命される。1887年2月公証人登用試験委員されたのち、同年12月に退職する。
1888年1月、福島町(現在の福島県福島市)にて代言業を開業し、弁護士会長を務める。その後1892年に第2回衆議院議員総選挙に福島1区から当選、第3回衆議院議員総選挙でも同じく福島1区から当選し衆議院議員となる。
脚注
出典
参考文献
関連項目
- 法典調査会
- 二階堂トクヨ - 福島県尋常師範学校女子部(現・福島大学)進学のため、小笠原の養女となる。