小笠原 成助(おがさわら なりすけ、生年不明 - 天正10年(1582年)11月)は、安土桃山時代の武将。長門守を称す。阿波小笠原氏の当主。一宮城を居城とした事から、一宮 成助(いちのみや なりすけ)とも呼ばれる。名の読み方は「なりすけ」で、成祐や成佐など同音異字の表記がある。妻は三好長慶の妹、野口冬長女。
生涯
姻戚関係にある三好氏に属して各地を転戦。永禄5年(1562年)の久米田の戦いにも参陣。大将である三好実休が戦死する敗戦となったが、撤退戦では配下を見事に指揮して無事に撤退に成功している。しかし、長慶の死後、三好氏の勢力が衰退し、三好長治が当主となった頃には、長宗我部氏に鞍替えし、天正5年(1577年)から天正8年(1580年)にかけて勝端城を巡って長宗我部氏の支援を受けながら十河存保と争奪戦を繰り広げている。
以後も、長宗我部氏の四国統一戦に従ったが、天正10年(1582年)9月3日[1]に三好康長に内応[2]して織田方に寝返り、中富川の戦いの後で再び長宗我部側に降参したが、11月に長宗我部元親に咎められ、切腹を命じられた[3]。
弟の成孝(光孝とも)は、兄が謀殺された際に讃岐国へ逃亡し、その子である光信の代で、蜂須賀氏に仕え、一宮神社の神職として血脈を残している。