小槻 統良(おづき の むねよし、生年不詳 - 正安2年1月7日(1300年1月29日))は、鎌倉時代の官人。初名は兼賀のち統栄、冬良、統良。左大史・小槻顕衡の子。官位は正五位下・左大史
経歴
亀山院政期の弘安5年(1282年)正五位下に叙せられ、弘安9年(1286年)主殿頭に任ぜられる。また、関白・鷹司兼忠の(政所別当)も務めた[1]。この頃、兼賀から統栄、冬良、統良に改名した。
永仁6年(1298年)父の小槻顕衡が没すると、統良が左大史に任ぜられ、引き続き(壬生流)で大夫史の地位を占めた。のち、記録所奉行や修理東大寺大仏長官を務める。正安元年(1299年)小槻伊綱が左大史に任ぜられて再び大夫史に壬生・大宮両流が並び立つが、正安2年(1300年)正月5日に統良は大夫史在任1年余りで出家し、7日に(卒去)。
官歴
系譜
『系図纂要』による。