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小川笙船

小川 笙船(おがわ しょうせん、寛文12年(1672年) - 宝暦10年6月14日1760年7月26日))は、江戸時代町医者漢方医弘治小川祐忠の子孫。

山本周五郎の小説「赤ひげ診療譚」の主人公"赤ひげ先生"(新出去定、にいできょじょう)のモデルとして知られる。

生涯

寛文12年(1672年)、(小川利重)の子として生まれる。

享保6年(1721年)12月、徳川吉宗が設置していた目安箱施薬院を設置することを求める意見を投書した[1]

享保7年(1722年)正月、吉宗は笙船の上書を取り上げ、有馬氏倫に施薬院の設立を命じた[1]。有馬の命を受けた町奉行の(中山時春)と大岡忠相は大岡邸に笙船を呼び意見を聴取した[1]。有馬は笙船の目論見には難しさもあるとしながらも、与力にも事務方を担当させることを命じ、翌日、両町奉行は中山出雲守組与力の満田作左衛門と大岡越前守組与力の吉田十郎兵衛を設立の事務方に当たらせた[1]

同年12月13日、小石川御薬園内に養生所が設立され、笙船は肝煎に就任した[1]。しかし、養生所が幕府の薬園であった土地にできたこともあり、庶民たちは薬草などの実験台にされると思い、あまり養生所へ来る者はいなかった。その状況を打開するため、忠相は全ての江戸町名主を養生所へ呼び出し、施設や業務の見学を行わせた。そのため、患者は増えていったが、その内入所希望者を全て収容できない状況に陥ってしまった。

享保11年(1726年)、子の(隆好)に肝煎職を譲って隠居し、金沢(現在の横浜市金沢区)へ移り住んだ。以後、養生所肝煎職は笙船の子孫が世襲した。その後、病に罹って江戸へ戻った。

宝暦10年(1760年)6月14日、病死。享年89。小石川の光岳寺に葬られ、太寧寺(横浜市金沢区)[2][3]に分骨されたという。後に雑司ヶ谷霊園へ改葬された。

参考文献

ドラマ

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e 山口静子. “小石川養生所初期の医療活動について”. 2020年7月21日閲覧。
  2. ^ “「赤ひげ先生」しのんで”. タウンニュース 金沢区・磯子区版. 株式会社タウンニュース社 (2012年6月21日). 2018年10月6日閲覧。
  3. ^ 太寧寺 - 横浜金沢観光協会

関連項目


先代
創設
小石川養生所肝煎
初代:1722 - 1726
次代
(小川隆好)
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