生涯
文治4年(1188年)、小山朝政の嫡子として生まれる[2][1]。通称は又四郎[3]。官職は左衛門尉[2]。初名は政義[1]。弟の朝村(政村)は薬師寺郷を領して薬師寺氏の祖となった[4]。
建久4年(1193年)8月、鶴岡で奉納された流鏑馬の射手として史料に現れる[5]。
承久元年(1219年)1月、将軍・源実朝が殺され、同3年(1221年)5月15日、後鳥羽上皇は北条義時追討の宣旨を諸国にくだした(承久の乱)[6]。朝長は、武田信光、小笠原長清、および叔父・結城朝光とともに東山道大将軍の一人として従軍した[7][2]。同年6月5日、東山道軍は大井戸の渡し(現・可児市)で京方を破り、東海道軍と合流し、同月15日入京した[8]。
乱後、幕府は、京方の公卿の中心人物を有力御家人に預け、鎌倉に護送させている[9]。同年7月、朝長は、命によって葉室宗行を駿河国藍沢原で斬首した[10][2]。
乱平定の恩賞として、尾張国海東荘を与えられたと推測される[11]。また、父から家督や所領を譲られている[3]。
系譜
脚注
- ^ a b c "小山朝長". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2023年3月12日閲覧。
- ^ a b c d 小山市史編さん委員会 1984, p. 462.
- ^ a b c 小山市史編さん委員会 1984, p. 463.
- ^ 小山市史編さん委員会 1984, p. 474.
- ^ 小山市史編さん委員会 1984, pp. 462–463.
- ^ 甲府市市史編さん委員会 1991, p. 371.
- ^ 甲府市市史編さん委員会 1991, pp. 371–373.
- ^ 甲府市市史編さん委員会 1991, p. 373.
- ^ 甲府市市史編さん委員会 1991, p. 374.
- ^ 甲府市市史編さん委員会 1991, pp. 374–375.
- ^ 小山市史編さん委員会 1984, p. 492.
- ^ 小山市史編さん委員会 1984, p. 481.
- ^ 小山市史編さん委員会 1984, p. 473.
- ^ 荒川 2012, p. 118.
- ^ 荒川 2012, pp. 107–108.
- ^ 小山市史編さん委員会 1984, p. 475.
- ^ 小山市史編さん委員会 1984, p. 480.
参考文献
外部リンク
- 『(小山朝長)』 - コトバンク