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宝筐院

宝筐院(ほうきょういん)は、京都市右京区嵯峨にある臨済宗単立寺院山号は善入山(ぜんにゅうざん)。本尊は十一面千手観世音菩薩室町幕府第2代将軍足利義詮南朝の武将楠木正行の墓がある。

宝筐院
山門
所在地 京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町9-1
位置 北緯35度1分20.9秒 東経135度40分24.9秒 / 北緯35.022472度 東経135.673583度 / 35.022472; 135.673583座標: 北緯35度1分20.9秒 東経135度40分24.9秒 / 北緯35.022472度 東経135.673583度 / 35.022472; 135.673583
山号 善入山
宗旨 臨済宗
宗派 臨済宗系単立
本尊 十一面千手観世音菩薩
開基 白河天皇
中興 (黙庵周諭)
文化財 絹本著色足利義詮像(重要文化財
法人番号 4130005001836
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歴史

平安時代白河天皇勅願寺として建立された[1]。当初の寺名は善入寺と称した。南北朝時代貞和年間(1345年 - 1350年)に夢窓疎石の高弟・(黙庵周諭)が臨済宗の寺として中興開山し、黙庵に帰依した室町幕府第2代将軍足利義詮によって観林寺と寺名を改められ伽藍の整備が行われるが、ほどなく寺名は善入寺に戻された。

寺伝によれば、南朝を代表する武将の楠木正行(小楠公。楠木正成の長男)もまた黙庵に帰依しており、正行が正平3年/貞和4年(1348年)に河内国北條(現・大阪府四條畷市)で行われた四條畷の戦いにおいて足利方の高師直師泰兄弟に討ち取られた後、黙庵によってその首級は寺内に手厚く葬られた。その正行の敵である足利義詮は正行の埋葬を知ると、「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺(現・宝筐院)の楠木正行の墓の傍らで眠らせてもらいたい」と遺言を残したといわれる。貞治5年(1367年)に義詮が没すると、正行の墓の隣に葬られた。

藤田精一は以上の説話は歴史的事実とは考えられないと指摘している。ただし、義詮が黙庵を崇敬していたこと、足利将軍家楠木氏を高く評価していたことは事実で、何もないところから生じた伝説ではないであろうとの考えもある。議論の詳細は(足利義詮#楠木正行との関係)を参照。

第8代将軍足利義政の時代に義詮の院号である宝筐院にちなみ、寺名を宝筐院に改めている。足利氏の庇護もあって寺は隆盛であったが、応仁の乱以後は次第に衰退していった。

江戸時代になると宝筐院は天龍寺の傘下に入り、その山外塔頭となっている。幕末には客殿と庫裏しかない状況となり、ついに廃寺とされている。

1891年明治24年)、京都府知事北垣国道は楠木正行の遺跡が荒れているのを知り、由来を記した石碑「欽忠碑」を建てている。そして、正行ゆかりの遺跡を守ろうと天龍寺管長・高木龍淵神戸の実業家・(川崎芳太郎)(川崎正蔵の養子)によって、旧境内地が買い戻され、建物も移築されて伽藍が整えられ、宝筐院の再興が行われた。工事は1916年大正5年)に完成したが、その後茶室が移築され、本堂が新築されている。

境内

  • 本堂
  • 庭園 - 苔庭で、多くの紅葉が植えられている。
  • 庫裏
  • 茶室
  • 足利義詮の墓 - 三重石塔。
  • 楠木正行の墓 - 五輪塔。墓前にある石灯籠の字は富岡鉄斎の書である。
  • 山門

文化財

重要文化財

  • 絹本著色足利義詮像

アクセス

  • JR嵯峨嵐山駅より徒歩15分。
  • 市バスまたは京都バス大覚寺行 嵯峨釈迦堂前より徒歩3分。

出典

  1. ^ “愛宕道”. 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所. 2022年8月8日閲覧。

外部リンク

  • 宝筐院公式サイト
  • 宝筐院の写真
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