歴史
光仁天皇の宝亀4年(773年)、和気清麻呂が八幡宮を勧請したことに始まるとされる。
寿永2年(1183年)、当神社がある桛田荘(かせだのしょう)(現、和歌山県伊都郡かつらぎ町笠田中の一帯)が和気清麻呂ゆかりの寺院である神護寺の荘園となるが、その頃の景観を描いたとされる2枚の桛田荘絵図(いずれも重要文化財)が、神護寺と当神社とに残されている。
当神社の神宮寺である(神願寺)は源満仲が創建し、その三男の(源賢)が住職をしていた寺院であるが、鎌倉時代には荒廃していた。そこに、神護寺の復興に尽力した文覚が熊野からの帰りにこの地を訪れ、再興している。
戦国時代に入ると神護寺による桛田荘の統治は困難となり、付近一帯が高野山金剛峯寺の荘園であったこともあり、また高野山の福蔵院(現、巴陵院)と関係が深かった土豪の是吉氏の影響もあり、桛田荘は高野山との関わりを深めていった。
創建当初は八幡宮と呼ばれていた当神社が、いつごろから宝来山神社と呼ばれるようになったかは分かっていないが、大永5年(1525年)の年紀のある当神社所蔵の古文書(福蔵院旧蔵)には、「是吉大明神」とともに「宝来山大明神」と記されており、宝来山大明神社と呼ばれるようになっていた。
荒廃していた当神社であるが、江戸時代に入って是吉氏の尽力で復興した。
祭神
境内
文化財
重要文化財
和歌山県指定有形文化財
- 東殿
- 西殿
和歌山県指定史跡
- 文覚井
脚注
外部リンク
- 宝来山神社 - 公式サイト
- 寶來山神社 - 和歌山県神社庁