生涯
周の頃王の子として生まれた[1]。紀元前607年10月乙亥、兄の匡王が死去する[2]と、定王は後を嗣いで周王として即位した[1]。
紀元前606年春、楚の荘王が大軍を率いて陸渾の戎を討ち、洛水に達した。定王が王孫満を派遣してねぎらわせると、荘王は周の九鼎の軽重を訊ねた。王孫満は天命がまだ革まっていないとして、回答を拒否したので、荘王はあきらめて楚軍を撤兵させた[3]。
紀元前603年夏、定王は子服を派遣して斉に王后を求めさせた。冬、(召桓公)が斉から王后を迎えた[4]。
紀元前600年、定王は使者を魯に派遣した。魯の(仲孫蔑)が使節として周に赴いた[5]。