生涯
鄭の簡公の子として生まれた[1]。紀元前530年3月、簡公が死去する[2]と、定公は後を嗣いで鄭公として即位した。秋、定公は晋の昭公に朝見した。紀元前529年、楚の平王が即位すると、霊王の時代に奪った土地を鄭に返還した[1]。定公は晋・斉・魯・宋・衛などの諸侯と平丘で会合した[3]。紀元前526年、晋の韓起(韓宣子)が鄭を訪れ、子産と会談した[4]。紀元前524年、鄭で火災が起こった。子産が火災に遭った社を再建した[5]。紀元前522年、楚の(太子建)が鄭に亡命してきた。この年、子産が死去し、游吉が執政となった[6]。紀元前520年、太子建が晋と共謀して鄭を襲おうと謀ったため、鄭は太子建を殺し、建の子の(勝)が呉に逃れた[7]。紀元前517年、定公は晋に赴き、士鞅と会談した[8]。紀元前514年4月丙戌、定公は死去し[9]、子の献公が鄭公として即位した[1]。