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生涯
宍戸元源の次男として生まれる。元服に際し、大内義隆より偏諱を受けて隆忠と名乗る。のち安芸国高田郡上甲立末兼郷を領して、姓を末兼と改めた。農政に優れており、また、たたら製鉄を盛んにし、父の元源を補佐して領内の統治に尽くした。しかし1534年に甥の宍戸隆家に讒言する者があり、それを信じた隆家によって殺害された[1]。
この暗殺事件の後、隆家は眼病を患い、失明するに至った。隆家は眼病の原因は讒言によって殺害された隆忠の祟りだと信じ、謝罪の証文を釼大明神に納め、祭神として隆忠を祀った。眼病は治癒し、後に釼大明神は(宍戸大明神)として地域の信仰の対象となった。