生涯
建寧3年(170年)、後宮に入り、貴人となった。翌年、皇后に立てられた。気弱で、また皇帝の寵愛がなかったため、妃嬪たちはみな宋氏を散々にけなした。
霊帝は傍系から桓帝の帝位を継いだため、桓帝の弟の勃海王劉悝に対して猜疑心を抱き忌避していた。熹平元年(172年)、宦官の(王甫)は劉悝を調略により一族皆死に追いやった。劉悝の妃の宋氏は皇后と同族であった。そのため報復を恐れた王甫に讒言され、宋皇后は熹平7年(178年)に無実の罪を着せられた上で廃位および暴室送りにされ、三族皆殺しの刑に処せられた。宋氏自身もほどなく急死した。他の宦官たちは同情し、金を出しあって宋氏を簡素に埋葬した。
数年後、病臥する霊帝は桓帝を夢に見た。桓帝は言った。
「 | 宋皇后に何の罪があって佞臣に命を絶たせた?勃海王劉悝はすでに廃された上、一族もろとも殺害された。今、宋氏と劉悝は上天に訴え、天帝は激怒している、救い難い罪と… | 」 |
霊帝は驚き恐れたが、宋氏と劉悝の名誉回復は拒んだ。間もなく霊帝は崩御した。
参考文献
- 『後漢書』皇后紀下
- 『後漢書』董卓伝