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安部 鹿蔵(あべ しかぞう、1911年(明治44年)3月26日[1] - 1994年(平成6年)10月6日[1])は、国際放映の初代社長。北九州生まれ。
若かりし頃、北九州での激しい労働運動の指導者として官憲や資本家の用心棒であったヤクザと対峙する渦中に身を投じていた。
資本家との交渉のために16歳頃に数名の仲間と労働組合を作る、後に自身も当時を振り返り無鉄砲というか向こう見ずというか我ながら呆れかえると語っている。
社会運動家の浅原健三の同志として知られ、浅原健三が亡くなって後に彼の伝記を映画化しようと奮闘したが、原作者の福島氏が原稿完成前に亡くなられたことで頓挫した。
参考文献
- 文献は政策研究会発行の政策1984年12月号より一部抜粋と、浅原健三 「反逆の師子」より引用[2]
出典
- ^ a b 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、37頁。
- ^ http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/asahara.htm