安藤 正楽(あんどう せいがく、1866年12月21日(慶応2年11月15日) - 1953年(昭和28年)7月24日)は、愛媛県議会議員、歴史学者、画家、俳人である。
人物
伊予国(現在の愛媛県)宇摩郡土居町出身[1]。幼名岸蔵、通称鬼子太郎[1]。寺小屋にて(本田某)に学び、1872年(明治5年)に小学校(法正校)に入る。1882年(明治15年)ころ詩歌俳句を作り鴎眠・三外・天美・天乎などと号し、1886年(明治19年)正楽と改名。1889年(明治22年)離婚した後[1]、明治法律学校(現在の明治大学)に入学する。のち帰郷し、34歳の時宇摩郡会議員、35年36歳の時愛媛県会議員に。政治の世界に嫌気がさし、一期4年で引退。41年再び上京し、東京帝大人類学教室、歴史教室で日本古代史を研究。
書物や絵画、詠歌もよくし[1]、与謝野晶子や尾崎行雄、武者小路実篤らと多くの文化人と親交を持った[1]。1910年(明治43年)に発生された大逆事件に関与し[1]、逮捕され禁固の判決を受け[1]、日露戦争を批判した石碑の碑文が削除される処分をされた[1]。晩年には平和主義を主張し愛媛県議会内にて[1]、反軍演説をおこなった[1]。没後の1993年(平成9年)に正楽の子孫により削除された碑文が復刻された[1]。
略歴
- 1866年(慶応2年)、伊予国宇摩郡土居町中村字根々見(現四国中央市土居町根々見)に父清太、母クニの次男(長男恒太郎は天逝)として生まれる。
- 1873年(明治6年)、(小林村)、(西山越之助)の開く私塾に入門、いろはの手ほどきを受ける。その後根々見の寺子屋に移り、大町出身の良平という先生に習う。算盤は父に教わる。
- 1889年(明治22年)、明治法律学校に入学。当時お雇い外国人として来日していたイタリア人のアレッサンドロ・パテルノストロから国際法を学ぶ[1]。
- 1900年(明治33年)、宇摩郡議会議員に就任[1]。政治家として活動。
- 1902年(明治35年)、愛媛県議会議員に就任[1]。
- 1906年(明治39年)に政界を引退。月島丸遭難記念碑を建立する。
著書
脚注
外部リンク
- データベース『えひめの記憶』 四国中央市 安藤正楽(1866〜1953)
- 村松玄太「安藤正楽略年表・関係書誌」『大学史紀要』十一、明治大学大学史料委員会、2007年3月、271-277頁、CRID 1050001337382185600、hdl:(10291/9808)、ISSN 1349-8231。
- 知恵の輪 - 安藤正楽(人物)
- 高野敏樹「イギリスにおける「憲法改革」と最高裁判所の創設:イギリスの憲法伝統とヨーロッパ法体系の相克」『上智短期大学紀要』第30号、上智短期大学、2010年、83-99頁、ISSN 02877171、NAID 40018968579。