安東 忠家(あんどう ただいえ)は、鎌倉時代前期の武士。御内人。
建暦3年(1213年)、金窪行親と共に和田胤長を謀叛のかどで捕縛、尋問した。義時が没収した胤長の所領を下賜され行親と分割する。同年、鎌倉で起こった御家人同士の騒擾を鎮圧する。同年5月の和田合戦後、行親と共に和田義盛らの首実検を担当。建保7年1月27日(1219年2月13日)に源実朝を暗殺した公暁が長尾定景によって粛清され、その首が届けられると、検分に関与し、指燭を取る役目を請け負った。
承久3年(1221年)、義時の命に背き、駿河国へ逼塞したが、承久の乱が起こり西上する北条泰時の軍勢に加わる。泰時は一度は忠家の随従を拒んだが、最後には随従を許可したという。同年6月13日、宇治川で行われた戦いでは、(芝田兼義)の軍に参加して奮戦した。
参考文献
- 北条氏系譜人名辞典(新人物往来社)
- 佐藤進一「鎌倉幕府控訴制度の研究」