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宇治長次郎

宇治 長次郎(うじ ちょうじろう、明治4年12月23日1872年2月1日) - 昭和20年(1945年10月30日)は、明治時代から大正時代にかけて活動した山案内人。

略歴

  • 富山県上新川郡大山村(現・富山市)に生まれ、幼少から森林伐採などの作業に従事した。
  • その後、近代登山の黎明期に山案内人として活躍した。
  • 1896年(明治29年) - チヨと結婚。分家して和田へ移る。1907年にチヨが亡くなるまで3女1男をもうける[1]
  • 1904年(明治37年) - 農商務省山林局の越中・信州境界査定測量、越中・飛騨境界査定測量に従事。三俣蓮華岳鷲羽岳水晶岳雲ノ平祖父岳赤牛岳寺地山黒部五郎岳などを巡る[2]
  • 1907年(明治40年) - 参謀本部陸地測量部による劔岳測量が行われた時には、測量隊を陰で支えた。登頂の際に登路とした劔岳東面の雪渓は、彼の名にちなんで、長次郎谷(-たん)、長次郎雪渓と呼ばれている。1909年には石崎光瑤らによる剱岳登頂を成功にも導いている。その後、昭和時代初頭にかけて冠松次郎木暮理太郎田部重治など日本山岳会員らのサポートを行った[3]
    • 新田次郎の小説『劒岳 点の記』では、礼儀正しく謙虚な人柄と、持ち前の山に対するカンを生かして測量隊をサポートする山案内人として描かれた。
  • 1917年(大正6年)7月 - 宇治岩次郎とともに木暮理太郎田部重治、森喬の登山案内。小川温泉から白馬岳方面へ後立山を縦走[4]
  • 1919年(大正8年) - 山田竹次郎、宇治岩次郎らとともに小暮理太郎、中村清太郎の登山案内。黒部峡谷を遡行する予定が、長次郎以外の案内人と小暮の相性が悪く、ルートを短縮して雄山へ抜ける。
  • 1920年(大正9年) - 冠松次郎の登山案内。黒部川下ノ廊下を遡行。

  • 立山山麓家族旅行村(富山県富山市本宮)に立像が建立されている。

脚注

  1. ^ 五十嵐一晃 『山案内人 宇治長次郎』 281頁 桂書房刊 2009年8月刊 (全国書誌番号):(21650426)
  2. ^ 『山案内人 宇治長次郎』 282頁
  3. ^ “富山県ふるさと人物データベース・宇治長次郎”. 富山県立図書館. 2018年3月10日閲覧。
  4. ^ 『山案内人 宇治長次郎』 284頁

演じた俳優

参考資料

  • 第一章 偉人紹介その2(おおやま物語)~大山観光協会
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