事跡
黒山賊の張燕が、常山・趙郡・中山・上党・河内の諸山谷の独立勢力と連携した際、その中の一勢力の指導者だった孫軽は、王当と共に張燕配下となり、黒山軍の結成に加わった。以後、黒山軍は河北で一大勢力を形成するようになった。その後、張燕は公孫瓚と連合し、配下の将軍である杜長を派遣するなどして袁紹に対抗した。しかし敗北により、黒山軍は追い詰められるようになっていった。建安9年(204年)、曹操軍の張遼が趙国と常山を攻略すると、孫軽にも招請がきたため、孫軽は他の黒山軍や独立勢力と共に張遼に降伏した。これ以降、史書に記述が見当たらない。
なお孫軽は、張燕配下の黒山軍の中では、名前が史書に残されている数少ない人物の1人であり、王当・杜長と共に張燕の有力な腹心だったことが窺える(黒山軍の有力部将としては、他に眭固・于毒がいるが、彼らは張燕の指揮下にあったとは言い難い)。
小説『三国志演義』には登場しない。
参考文献
- 『三国志』魏書8張燕伝
- 同魏書17張遼伝