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生涯
218年、弘農郡陸渾の県長であった張固は、人夫を徴発し漢中に送ろうとした。苦役を嫌がった百姓たちは孫狼を指揮者として挙兵し、県主簿を殺し県城を破壊した。張固は胡昭のもとへ身を寄せて、孫狼に対抗して領民を呼び集めた。
折しも、漢中王劉備に仕える前将軍の関羽が魏の樊城・襄陽の包囲しており(樊城の戦い)、宛の侯音などの魏に反抗する反乱者・盗賊たちは関羽に帰服した。孫狼も関羽から印綬や称号を受け魏の後方攪乱を命じられた。
孫狼は関羽の命を受けて暴れまわっていたが、陸渾の南にある胡昭の住む長楽亭まで来たところで「胡昭は賢者であるから、あの部落は絶対に侵害してはならぬ」と仲間と誓い、手を出さなかった[1]。
脚注
- ^ 『管寧伝』