生涯
赤烏元年(238年)、公孫淵は司馬懿の侵攻の報を受けると呉に救援を要請した。先に呉が送った張彌、許晏らが斬られたこともあり、人々は使者を斬ろうとしたが、羊衜は「奇襲部隊を派遣して様子を見させ、魏が敗れれば追撃して恩を売り、膠着状態となれば近隣の郡を略奪して帰れば彼らへの罰となります。」と提案し採用された[2]。そうして督軍使者の羊衜、鄭胄、将軍の孫怡ら呉軍は、翌年(239年)3月に海路で遼東に到着した。その時にはすでに公孫淵は滅んでいたため、羊衜らは魏の守将である張持、高慮を破り、住民を捕虜に得ると帰還した。
赤烏4年(241年)、呉の太子・孫登は臨終に際して上疏し、多くの臣下を称揚した。その中で諸葛瑾・歩騭・朱然・全琮・朱拠・呂岱・吾粲・闞沢・厳畯・張承・孫怡らを指して「(彼らは)国家のために忠誠を尽くし、政治に通暁しております。」と述べた。
五鳳2年(255年)の秋七月、蜀漢から使者が訪問すると、将軍の孫儀、孫怡[3]、林恂らは会見の席上で孫峻の暗殺を企てた。しかし、計画が事前に発覚したため、孫儀は自害し、林恂など処刑された者は数十人に及び、その中には公主の孫魯育も含まれた。
現存する孫怡にゆかりのある物品として、天理参考館に所蔵される『重列式神獣鏡』がある。この銅鏡の周縁には「将軍孫怡士張平竟■寸」と刻まれており、孫怡の兵士の張平の所有した鏡と分かる[4]。
脚注
参考文献
- 『三國志』