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姉小路基綱

姉小路 基綱(あねがこうじ もとつな)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿大名歌人参議・(姉小路昌家)の子。(飛騨国司)。姉小路家((飛騨古川氏))当主。

 
姉小路基綱
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 嘉吉元年(1441年
死没 永正元年4月23日1504年6月5日
別名 古川基綱
戒名 常心
官位 (飛騨国司)、従二位権中納言
氏族 姉小路家((飛騨古川氏))
父母 父:(姉小路昌家)
兄弟 基綱、(宗如)(蓮如第4夫人)
済継済子、娘((小島時秀)室)
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経歴

嘉吉元年(1441年)に参議・姉小路昌家の子として誕生。

侍従左近衛少/中将等を経て、文明9年(1477年)に従三位に叙せられて公卿に列す。その後、文明12年(1480年)参議、文明16年(1484年正三位明応3年(1494年従二位に叙任されている。

当時、飛騨の姉小路家は三家に分裂し、古川家の基綱の他に、小島家の小島勝言と向小島家の(向之綱)という事実上3人の当主がいた。応永18年(1411年)の飛騨の乱の後、小島家が宗家当主として、古川家と向家に対して優位な立場にあった。だが、小島家の勝言の死後、古川家の基綱が小島家を圧倒し、宗家の地位を奪い、飛騨国司を名乗った。また、基綱は勝言の子・(時秀)が成長すると娘を嫁がせ、姉小路家を統制した。

明応8年(1499年)12月、基綱は飛騨の知行が不安定であることを見て、後柏原天皇に奏上したうえで、古川城へと帰還した。 そして、大名として当時木曽谷に勢力を張っていた木曽義元と度々争った。

文亀4年(1504年)、家臣の三木重頼を使い木曽谷へ侵攻、長きに渡る抗争の果てに王滝城にて木曽義元を討ち、同年閏3月には小一条流としては平安時代中期の藤原通任以来約470年ぶりとなる権中納言に昇進しているが、4月23日に古川城で(薨去)、享年64。最終官位は権中納言従二位。法名は常心。

歌人として

和歌で才能を発揮し、度々宮中の歌会に参加。公家歌人として、将軍・足利義政に重用された。寛正6年(1465年)に勅撰集が企画された際には、二十代の若さで和歌所寄人に召されたが、応仁の乱のため撰集は実現に至らなかった。文明15年(1483年)の足利義尚の和歌打聞には公家方手伝衆を勤めるなどしたため、京では歌人としての名は高かったと推測される。三条西実隆にも先輩歌人として親交が深かった。後土御門天皇の歌壇の中心的存在でもあった。また、明応4年(1495年)には新撰菟玖波集を清書するなど、書家としても知られた。家集『卑懐集』『卑懐集之外』『飛州黄門百首集』などがある。

官歴

注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

系図纂要』による。

  • 父:(姉小路昌家)
  • 母:不詳
  • 生母不詳の子女

脚注

  1. ^ a b c d e f g 『諸家伝』
  2. ^ 『歴名土代』
  3. ^ 松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年) P265-266・278-279.
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