姉小路 基綱(あねがこうじ もとつな)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿・大名・歌人。参議・(姉小路昌家)の子。(飛騨国司)。姉小路家((飛騨古川氏))当主。
経歴
侍従・左近衛少/中将等を経て、文明9年(1477年)に従三位に叙せられて公卿に列す。その後、文明12年(1480年)参議、文明16年(1484年)正三位、明応3年(1494年)従二位に叙任されている。
当時、飛騨の姉小路家は三家に分裂し、古川家の基綱の他に、小島家の小島勝言と向小島家の(向之綱)という事実上3人の当主がいた。応永18年(1411年)の飛騨の乱の後、小島家が宗家当主として、古川家と向家に対して優位な立場にあった。だが、小島家の勝言の死後、古川家の基綱が小島家を圧倒し、宗家の地位を奪い、飛騨国司を名乗った。また、基綱は勝言の子・(時秀)が成長すると娘を嫁がせ、姉小路家を統制した。
明応8年(1499年)12月、基綱は飛騨の知行が不安定であることを見て、後柏原天皇に奏上したうえで、古川城へと帰還した。 そして、大名として当時木曽谷に勢力を張っていた木曽義元と度々争った。
文亀4年(1504年)、家臣の三木重頼を使い木曽谷へ侵攻、長きに渡る抗争の果てに王滝城にて木曽義元を討ち、同年閏3月には小一条流としては平安時代中期の藤原通任以来約470年ぶりとなる権中納言に昇進しているが、4月23日に古川城で(薨去)、享年64。最終官位は権中納言従二位。法名は常心。
歌人として
和歌で才能を発揮し、度々宮中の歌会に参加。公家歌人として、将軍・足利義政に重用された。寛正6年(1465年)に勅撰集が企画された際には、二十代の若さで和歌所寄人に召されたが、応仁の乱のため撰集は実現に至らなかった。文明15年(1483年)の足利義尚の和歌打聞には公家方手伝衆を勤めるなどしたため、京では歌人としての名は高かったと推測される。三条西実隆にも先輩歌人として親交が深かった。後土御門天皇の歌壇の中心的存在でもあった。また、明応4年(1495年)には新撰菟玖波集を清書するなど、書家としても知られた。家集『卑懐集』『卑懐集之外』『飛州黄門百首集』などがある。
官歴
注記のないものは『公卿補任』による。
- 時期不詳:従五位下。侍従[1]。
- 時期不詳:従五位上[1]
- 康正2年(1456年) 10月22日:正五位下[2]
- 時期不詳:左近衛少将[1]
- 長禄4年(1460年) 正月6日:従四位下[1]
- 時期不詳:左近衛中将[1]
- 寛正7年(1467年) 正月6日:従四位上[1]
- 文明2年(1470年) 正月13日:正四位下[1]
- 文明9年(1477年) 12月13日:従三位(文明10年8月賜位記)、辞左近衛中将
- 文明12年(1480年) 3月29日:参議
- 文明16年(1484年) 4月11日:正三位(文明17年5月賜位記)
- 延徳2年(1490年) 6月30日:辞参議
- 延徳4年(1492年) 6月6日:還任
- 明応3年(1494年) 正月6日:従二位(後日書入)
- 文亀2年(1502年) 7月8日:辞官
- 文亀4年(1504年) 閏3月16日:権中納言。4月23日:(薨去)(権中納言従二位)
系譜
『系図纂要』による。