概要
伝承によれば、正嘉2年(1258年)に地元の武士である佐久間氏によって築城されたとされているが、城の実在を確認できるのは戦国時代に入ってからとされる。その後、真里谷氏・正木氏の支配下に入った。
正木氏が奥津城を領したのは、天文13年(1544年)ごろとされているが、天正8年(1580年)に正木憲時が里見義頼に叛旗を翻したときには、里見軍に攻められて「興津巣城計(すじろばかり)」すなわち城郭部分以外が撃破されて裸の状態になったという(『妙本寺文書』「里見義頼書状」)。その後、天正18年(1590年)の小田原征伐後に廃城になった。
外房地域の主要な湊であった興津から1km北にある丘陵の尾根の上にある。地形的には海に向かって伸びる丘陵の南端に位置しており、標高は約120m、城下があったと推定される北側の集落との高低差は30mほどである。南北400m・東西100mの規模で南側の南北100m・東西50mの方形の主郭が唯一の曲輪となっている。その東側には巨大な土塁が築かれ、北端には虎口を守るための(櫓台)が設けられた。城の北側には街道が、南側には興津の湊に続く尾根道があり、両者の交通を掌握するのに便があった。
参考文献
- 千葉城郭研究会 編『図説 房総の城郭』国書刊行会、2002年。
- 川名登 編『図説 房総の城郭』すべてわかる 戦国大名里見氏の歴史、2000年。