大阪歌舞伎座 Osaka Kabukiza | |
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情報 | |
正式名称 | 大阪歌舞伎座 |
完成 | 1932年 |
開館 | 1932年9月28日 |
閉館 | 1958年4月 |
最終公演 | 新国劇サヨナラ公演 |
客席数 | 3,000席 |
延床面積 | 3,549m² |
用途 | 歌舞伎の興行 |
運営 | 千日土地建物株式会社 |
所在地 | 大阪府大阪市南区難波新地三番町 |
松竹の興行が行われていたが、経営はその傍系会社であった千日土地建物(千土地興行を経て日本ドリーム観光に改称)が行ってきた。千日前交差点の角地に立地し、まだ高層建築物が少なかった当時の大阪で、地上7階建のビルディングは正面の巨大丸窓と共に異彩を放っていた。劇場自体はビルの1 - 4階部分を占め、東京・歌舞伎座よりも芝居が見やすく、スケールの大きな劇場として知られた。
上方歌舞伎の殿堂
東京・歌舞伎座を凌ぐ座席数と舞台設備を誇り、初代中村鴈治郎の人気も相まって、千日前楽天地の跡地にできたこの大劇場はまさに「上方歌舞伎の殿堂」と呼ぶに相応しい劇場であった。
にも拘らず実質26年で廃座に至ったのは、戦後の上方歌舞伎(関西歌舞伎)が衰退の一途を辿り、大劇場の維持が困難になってきたためとされる。ただ一方、戦前でさえ(本来ならば、この劇場を本拠地に活躍する立場だったはずの)初代鴈治郎の出演は東京から来演した役者との東西合同歌舞伎に出演が限定されるなど、当時の関西(京阪)の観劇人口に対して大きすぎる劇場であった点も無視できない[1]。
その後
大阪歌舞伎座は難波に新歌舞伎座を別途建設して移転する形で閉鎖されたが、移転後経営主体であった千土地興行は程なく上方歌舞伎の興行を打ち切った。その後、新歌舞伎座では歌手芝居を中心とした興行が行われるようになった。
一方、大阪での歌舞伎は劇場も定まらない状況で非定期的な興行が行なわれていたが、「関西で歌舞伎を育てる会」(現「関西・歌舞伎を愛する会」)の結成、三代目中村鴈治郎(四代目坂田藤十郎)の襲名を機に、年に数回ながら、道頓堀の中座を拠点に定期的な興行が行なわれるようになった。同じく道頓堀の大阪松竹座が1997年(平成9年)2月に映画館から実演の劇場として再開場してからは、こちらに拠点を移し、今日でも興行が継続されている。
沿革
- 1932年(昭和7年)9月28日 - 開場式、翌月こけら落し
- 1933年(昭和8年)- 6階にアイススケートリンクが設置される。
- 1938年(昭和13年)10月15日 - 地階に映画館「歌舞伎座地下劇場」が設置される[2]。
- 1945年(昭和20年)10月 - 6階を改装し、占領軍向け特殊慰安所(キャバレー)が設置される。
- 1954年(昭和29年)12月 - 新国劇公演中にストライキ発生。芝居が中断される(千土地人権争議)。
- 1958年(昭和33年)1月 - 興行主体が松竹から千土地興行に代わる。
- 1958年(昭和33年)4月 -「新国劇サヨナラ公演」をもって廃座となる。閉館になった建物を商業施設に改装する工事が始まる。
- 1958年(昭和33年)12月1日 - 改装工事が完了し、複合商業施設「千日デパート」が開業する。
- 1972年(昭和47年)5月13日 - 千日デパート火災発生。火災後、焼失した建物が営業再開されないまま長期間放置される。
- 1980年(昭和55年)
- 1月14日 - 千日デパートビルの取り壊しが決まる。
- 2月 - 解体工事が始まる。
- 1981年(昭和56年)4月 - 千日デパートビルの解体工事が完了し、建物は消滅した。
構造
その他
- 地階は映画館などが設置されたが、1956年(昭和31年)に演芸場・歌舞伎地下演芸場に転換した。これは戎橋松竹の閉鎖に伴う代替処置であったが、寄席囃子が楽屋を伝って上階の歌舞伎座の舞台に洩れてしまうなどの欠陥が生じた。「(戎橋松竹#歌舞伎地下演芸場)」も参照
- 5階は大食堂が設けられたが、1951年(昭和26年)にアルバイトサロン(現在のキャバクラに相当)「ユメノクニ」が開場した。この他にも別の階に「歌舞伎キャバレー」なる店も営業された時期もあり、歌舞伎と風俗が同居する奇妙な形態となっていた。
- 6階はアイススケートリンクが設けられ、京都・河原町三条のスケートニュース映画館と神戸・新開地聚楽館とでチェーンが形成されていた。終戦直後の1945年(昭和20年)10月に占領軍向けの特殊慰安所に改装され、「ドリームランド」の名前で朝鮮戦争勃発時まで営業した。その後は「歌舞伎会館」という劇場に転換し、曾我廼家五郎劇(軽演劇)と漫才を上演していた。この劇場は千日デパートに転換後、演芸場の千日劇場になる。