大蔵 種材(おおくら の たねき)は、平安時代中期の貴族・武人。大蔵春実の孫。大宰大貫主・大蔵種光の子。官位は従五位下・(壱岐守)。岩間将軍と号した。
経歴
大宰少監を務めた後、寛弘4年(1007年)子息・(満高)が(大隅守)・(菅野重忠)を射殺する[1]。満高は種材の指示で殺害を行ったらしく[2]、種材は重忠の遺族(後家)からこの殺人事件の犯人として訴えられ、寛弘5年(1008年)5月の陣定で対応が協議される[3]。11月に入って、種材は左衛門府の射場に身柄を拘束される[4]。結局、数ヶ月の拘留を経て、翌寛弘6年(1009年)7月に放免された[5]。この殺人事件の原因は明らかでないが、大隅国内の権益に関して、同国の有力者であった種材と、受領国司であった重忠との間で対立があった[6]。特に、南島交易の利潤獲得のための加治木郷の開発・領有を巡って、大宰府と大隅守であった重忠に対立があったとする見方がある[7]。
のち、大宰大監を務める。寛仁3年(1019年)4月の刀伊の入寇において、種材は既に70歳を超す高齢であったが、大宰権帥・藤原隆家らと共に刀伊に対して応戦する。さらに、刀伊が撤退しようとした際、追撃のための兵船の整備を待たずに単独で追撃を行う旨を(筑前守)兼大宰少弐・源道済に訴えた。この訴えは認められるも、刀伊の撤退が迅速であったために戦闘には至らなかったが、種材の忠節は深く褒賞すべき者として大宰府から報告が行われた[8]。7月になって種材は入寇での功労により壱岐守に任じられている。
人物
天下無双の弓馬の達者とされる[10]。