大荒沢信号場(おおあらさわしんごうじょう)は、かつて岩手県和賀郡西和賀町にあった日本国有鉄道(国鉄)北上線の信号場である。信号場となる前は駅であった。
概要
大荒沢信号場は、1924年(大正13年)10月に東横黒線(現北上線の東側)が西横黒線(同じく西側)との連結を目指して西進するなかで、難所であった仙人隧道の貫通にともなって隧道西側まで延伸した際に、暫定的な終着駅、大荒沢駅として開業した[1]。すぐ後の同年11月には大荒沢から陸中川尻駅までの最後の区間が開通し、横黒線は東西が連結して全通、大荒沢駅は中間駅となった[1]。作家の内田百閒が、『阿房列車』の取材のために、終着駅時代と途中駅になったあとの2度、この駅を訪れている。2度目の時は大雪のため、この駅で列車が動けなくなり、駅長室に宿泊している。
その後、湯田ダム(錦秋湖)建設のために大荒沢駅を含む約15 kmの区間がダム湖に沈むこととなり、1962年(昭和37年)に現在線である新線へと付け替えが行われた[1]。その際、大荒沢駅は駅としては廃止され、信号場へと格下げとなった[1]。その後、1970年(昭和45年)には、信号場としても廃止され、現在に至る[1]。
ルート変更前、つまりダム湖に沈む前には駅周辺に大荒沢の集落や大荒沢ダムがあったが、現在は周辺には秋田自動車道錦秋湖SAを除くと大荒沢・小荒沢という沢があるくらいである。
廃止跡
現在線上の信号場跡地には、ホームなどの遺構がわずかに現存している。
旧線上の駅跡地は、基本的にはダム湖の渇水期にも姿を現すことなく湖底に沈んだままであるが、現在もホームおよび軌道敷の跡が残存していることが確認されている(外部リンク参照)。
歴史
隣の駅
脚注
外部リンク
- 山さ行がねが - アマチュア時代の平沼義之による廃線跡・水没遺構リポート。
- 新線上の信号場跡
- 渇水期よりも水位が低い時に現れた旧線上の駅跡