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大田原城

大田原城(おおたわらじょう)は、1543年大田原資清によって下野国大田原蛇尾川西岸、比高約25メートルの龍体山に築かれた日本の城平山城)。

大田原城
栃木県
大田原城址。東側の土塁上より本丸跡を望む。
別名 龍城、龍体城、前室城
城郭構造 平山城
築城主 大田原資清
築城年 1543年(天文12年)
主な城主 大田原氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 土塁、堀
指定文化財 大田原市史跡
位置 北緯36度52分6.05秒 東経140度2分4.55秒 / 北緯36.8683472度 東経140.0345972度 / 36.8683472; 140.0345972座標: 北緯36度52分6.05秒 東経140度2分4.55秒 / 北緯36.8683472度 東経140.0345972度 / 36.8683472; 140.0345972
地図
大田原城
(テンプレートを表示)

概要

城郭配置は北から北曲輪本丸二の丸三の丸とし、大手は西の奥州街道に面した。

関ヶ原の戦い時の戦功による5000石加増により大田原藩が立藩され、明治維新まで累代大田原氏がこの城を拠点としてこの地を治めた。

戊辰戦争の際、大田原藩は新政府軍につき本城は対会津攻めの重要拠点視され、1868年(慶応4年)5月、旧幕府軍による攻撃を受けて三の丸が炎上した。1873年廃城令により廃城。

城址は1961年(昭和36年)12月8日に大田原市の史跡に指定され[1]、現在は龍城公園(城山公園とも[2])として利用されている。土塁にはツツジが植えられ[2]、花見の名所[3]として大田原市民に親しまれている。

大田原市旧市街地には城下町時代の往時を偲ばせる敵の来襲に備えた狭い道、鍵型に曲がった道などの面影が随所に残る。江戸時代中期の大田原城城門は大田原氏の菩提寺でもある大田原市光真寺の門として移設されていたが、現在の光真寺大門は1825年(文政8年)に焼失したものを再建したものである[4]

大田原城の北1.5kmの大田原市町島字水口の水田地帯には大田原城築城以前の大田原氏の館である水口(みなぐち)館跡がある。また、同市佐久山には那須氏那須資隆の次男・(那須泰隆)(やすたか)が1187年(文治3年)に築いた(佐久山城)跡がある(現在は御殿山公園)。いずれも1961年(昭和36年)に大田原城跡と共に大田原市の史跡に指定されている[1]

ギャラリー

脚注

  1. ^ a b “大田原市の文化財”. 大田原市 (2011年3月2日). 2012年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年5月10日閲覧。
  2. ^ a b “城山公園(大田原城跡)”. 大田原市 (2008年11月27日). 2011年10月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年5月10日閲覧。
  3. ^ a b 『見たい・知りたい・遊びたい とちぎ探検隊 市町村ガイドブック 2004年度版』下野新聞社、2004年4月27日、56頁頁。ISBN (4-88286-238-7)。 
  4. ^ a b “光真寺総門 (大門・仁王門)”. 光真寺. 2010年4月23日閲覧。

関連項目

外部リンク

  • 大田原市. “大田原城跡(おおたわらじょうあと) 市指定史跡”. 2017年7月25日閲覧。
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