経歴
村上朝の天暦8年(954年)文章得業生に補せられると、天暦11年(957年)対策に及第し、式部丞を経て、天徳4年(960年)巡爵により従五位下・(摂津権守)に叙任される。
応和元年(961年)春宮・憲平親王の東宮学士となる一方で、応和4年(964年)権右少弁にも任ぜられる。康保3年(966年)従五位上・右少弁に昇進し、康保4年(967年)憲平親王が践祚(冷泉天皇)すると、今度は春宮・守平親王の学士を務めた。
安和2年(969年)正月に(讃岐権介)任ぜられて弁官を去るが、守平親王の践祚(円融天皇)に伴って同年9月に学士の労によって四階昇進して従四位上に叙せられる。その後、治部卿・治部卿・大学頭を歴任し、天延4年(976年)正四位下に昇叙される。のち散位となるが、貞元2年(977年)蔵人頭に抜擢されると、貞元3年(978年)右大弁、天元2年(979年)式部権大輔と次々に栄職を占め、天元4年(981年)参議兼式部大輔に任ぜられて公卿に列した。
天元5年(982年)従三位に叙せられる。この頃より毎年のように式部大輔の辞任を上表するが、なかなか許されたなかった。寛和2年(986年)正月に左大弁を兼ね、11月に正三位に至る。
官歴
- 天暦8年(954年) 日付不詳:文章得業生
- 天暦9年(955年) 2月:(丹後掾)
- 天暦10年(956年) 10月:昇殿
- 天暦11年(957年) 正月:(美乃権大掾)。2月:六位蔵人。10月:対策及第
- 天徳2年(958年) 正月:式部少丞
- 天徳3年(959年) 正月:式部大丞
- 天徳4年(960年) 正月7日:従五位下(省労)、(摂津権守)。9月16日:昇殿
- 応和元年(961年) 3月25日:東宮学士(春宮・憲平親王)
- 応和2年(962年) 8月:民部少輔
- 応和4年(964年) 正月:権右少弁(学士如元)
- 康保2年(965年) 正月:兼美乃介
- 康保3年(966年) 正月:従五位上(策)。正月:右少弁
- 康保4年(967年) 正月5日:五位蔵人。5月25日:止蔵人(天皇依昇遐也)。6月:新帝蔵人。9月:東宮学士(春宮・守平親王、太子初立)
- 康保5年(968年) 正月13日:左少弁。2月5日:右中弁
- 安和2年(969年) 正月:(讃岐権介)、去弁[1]。2月7日:美乃介。6月20日:美乃権守。9月22日:従四位上(先坊学士。越階)
- 安和3年(970年) 正月28日:治部卿。8月6日:昇殿
- 天禄4年(973年) 正月28日:(近江守)
- 天延2年(974年) 6月27日:大学頭
- 天延4年(976年) 正月7日:正四位下(修理大学功)。6月16日:止大学頭
- 貞元2年(977年) 4月24日:蔵人頭。12月9日:民部権大輔
- 貞元3年(978年) 10月17日:右大弁
- 天元2年(979年) 10月2日:式部権大輔
- 天元4年(981年) 正月29日:参議、弁大輔如元。10月16日:式部大輔
- 天元5年(982年) 正月30日:(伊予守)。11月:上表辞大輔。12月4日:従三位(造宮行事賞)
- 天元6年(983年) 正月:辞大輔、不許。8月:辞大輔
- 永観2年(984年) 8月18日:春宮昇殿、朱雀院別当。11月30日:式部大輔如元
- 寛和2年(986年) 正月18日:左大弁、大輔如元。11月10日:正三位
- 永延元年(987年) 7月12日:止大輔。10月:辞大弁。11月6日:(薨去)[2]