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大槻太郎左衛門(おおつきたろうざえもん)は、戦国時代に会津の北田の地を治めていた戦国武将。蘆名盛氏を主君とした。最初に北田の地を治めた(北田広盛)を初代として、政通は13代目である。
人物・逸話 - 太郎左衛門という名前は何代かにわたって受け継がれているが、「大槻」の姓を名乗ったのは太郎左衛門政通(行綱)のみである[1]。
- 政通の父は太郎左衛門高行であり、先祖は佐原義連である。
- 義連の息子・盛連が6人の息子たちに会津盆地周辺の所領を分配し、その時に北田の地を治めた次男の広盛が政通の先祖である[2]。
- 北田の姓は後に兄弟の分家により大庭に改められ、その後大槻に改められた[3]。
- 政通は主君であった蘆名盛氏に現在の福島県耶麻郡西会津町野沢に蟄居を命じられ、近隣の武将たちと協力して盛氏への謀反を企てた[4]。
系譜 - 先祖
- 佐原義連
- 北田広盛(初代)
- 北田政隆(6代)
- 大庭上総ノ介政泰(7代)
- 大庭太郎左衛門国通(8代)
- 高祖父
- 曾祖父
- 祖父
- 父
- 子供
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注釈
- ^ 太郎左衛門政通の時に大槻館に移り、館の名前にちなんで姓を大庭から大槻へ変えた。
- ^ 盛連の6人息子のうち、黒川の地を任され本家筋とされた四男の光盛が蘆名盛氏の先祖である。
- ^ 北田の姓を名乗ったのでは、北田広盛を初代として2代目と6代目である。
- ^ 太郎左衛門が同盟を求めた相手は、山ノ内右近太夫重勝・成田右馬允某・薄某・赤城玄蕃・上杉謙信等である。
参考文献 - 『新編会津風土記』 1-5巻、歴史春秋社、1999-2003。
- 高嶺慶忠編 編『会津鑑』 1-5巻、歴史春秋社〈会津史料大系〉、1981年。 NCID BA44471493。
- 『西会津史談』 1-5巻、西会津史談会、1998-2002。
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