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略歴
第2代藩主・大村純頼の長男として大村に誕生した。幼名は松千代。母は(松浦頼直(大村頼直))の養女(実父は家臣の楠本右衛門)。正室は伊丹勝長の娘・松。
父の純頼が元和5年(1619年)11月に28歳で早世し、公式には嗣子が無かった大村藩は改易の危機となった。
かつて純頼は国元で子を儲けていたものの、理由は定かではないがその子を堕胎させるよう命じていた。しかし家老の(大村純勝)[2]はこれを密かに出産させ、純頼を説得してその子である松千代を助命させていた。この遺児ではあるが幕府に無届けであった松千代を、純頼が末期養子に迎えたように装い、重臣らは近隣大名や幕閣を説得にかかった。純勝と(富永忠清)はわずか2歳の松千代を擁して同年12月10日に大村を発ち、翌元和6年(1620年)正月21日に江戸に到着、幕府に松千代による相続を訴えた。この時、純勝は老中から幕臣に取り立てる話を受けたがこれを断り、執拗にあくまで主家の存続を訴えた[3]。同年5月15日、松千代の家督相続は認められた。この功により純勝とその子孫には、主家と同じ家紋の使用許可と大年寄の地位が代々与えられた。母の養父の松浦頼直も大村姓を与えられ、以降両家は江戸時代を通して、藩主家の分家という扱いを受けた。[4]
同年、藩は先代の純頼の時に命じられていた、大坂城の石垣修築普請を行っている。、寛永5年(1628年)、タイオワン事件のオランダ人捕虜を幕命で預かることになり、牢の管理を行った。
寛永8年(1631年)の領内検地では表高2万7900石余に対し、実高4万2730石を打ち出し、藩の直轄領もその過半を越している。しかし(長崎御用役)や江戸での出費により藩財政は苦しく、親類大名からの借金や、家臣からの上米をおこなって凌いでいる。
寛永14年(1637年12月11日)10月末に起こった島原の乱には病のため参加できず、純勝が兵を率いて長崎を警固した。
しかし純信は慶安3年(1650年)5月に子のないまま33歳で死去し、大村藩は再び改易の危機に瀕することとなった。家中で議論は割れたが、正室であった松の兄弟である大村純長(伊丹勝長の四男)が末期養子となることで、その危機を脱した。
系譜
父母
- 大村純頼(父)
- (大村頼直)の養女 ー 楠本右衛門の娘(母)
正室
- 松 ー 伊丹勝長の娘
養子
脚注
- ^ 有馬晴純の五男で大村純忠の弟の松浦盛の子。長崎純景の婿養子となったが長崎氏が所領を失った際に養父と別れ、大村喜前に仕えた。
- ^ 大村一族。純勝は大村純忠の頃から重臣として本家に仕えている。天正14年(1586年)の長与領主長与純一の反乱の際に、一番乗りの戦功を挙げている。。純忠、喜前、純頼、純信と歴代に仕え、一旦隠居したが、再度出仕を命じられ再び家老となり、純長の頃の万治2年(1659年)、92歳(95歳)で死去した。
- ^ 三代将軍徳川家光からの旗本取り立ての話は寛永7年(1630年)。純勝はこれを固辞している。
- ^ 承応2年(1653年)に藩の庶政を行う為の評定所が建てられるまで、藩政は純勝の屋敷で執り行われていた。