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大曲古土手

大曲古土手(おおまがりふるどて)は、宮城県登米市豊里町大曲から十五貫にわたって築かれている古い土手(土堤)である[1]

大曲古土手

登米市豊里・大曲古土手
情報
所在地 宮城県登米市豊里町大曲
座標 北緯38度36分8.87秒 東経141度13分30.21秒 / 北緯38.6024639度 東経141.2250583度 / 38.6024639; 141.2250583
全長 約2.5 km

概要

江戸時代に、伊達宗倫登米伊達家)が赤生津谷地を開拓するに当り、秋山源兵衛[2]を開拓係として築堤させたものである。延長は大曲地区の分で1,040(およそ1,872m)との記録があり、豊里町十五貫の迫川堤防付近まで[3]達する。現状は、その後の迫川北上川の治水が進むにつれて水害の心配が薄れたことにより、再開発で部分的に欠損している。かつては「大曲土堤」とも呼ばれていて、昭和後期の基盤整備事業により圃場となる前は、大曲土堤の北西側には「裏沼」と呼ばれる細長い沼があり、水泳が出来るほどの水深があった。

沿革

  • 1667年寛文7年) 登米領主伊達宗倫の命により、北西側に隣接する桜岡村(登米市米山町桜岡)より流来する悪水[4][5] を排除する目的で秋山源兵衛が指揮して築いた。
  • 1728年享保13年) 秋山源兵衛の孫、七兵衛が赤生津村に居住し、この土手を補修し再興する[6]
  • 1729年(享保14年) 土手補修の功により、一貫文の地[7] を加算される。
  • 1977年昭和52年)3月20日 当時の豊里町(現・登米市)により史跡に指定される。

アクセス

関連項目

脚注

  1. ^ 登米市内指定文化財一覧
  2. ^ 東北農政局/江戸時代
  3. ^ 当時新迫川は存在していない。
  4. ^ 汚水と言う意味もあるが、主に田畑に不要な水のことをいう。
  5. ^ 旧迫川流域は、幾度となく洪水に襲われ、旧北上川下流域と合わせると、慶長年間から昭和初期までの約350年間に75回もの洪水被害を受けたと伝えられている。
  6. ^ 登米藩史稿による
  7. ^ 米10石を生産する土地で、約1町歩(1ヘクタール
  8. ^ 1610年慶長10年)生 - 1685年貞享2年)没
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