大島 光政(おおしま みつまさ、永禄6年(1563年) - 元和8年8月12日(1622年9月17日))は美濃国出身の戦国武将。通称、茂兵衛、光吉。(川辺大島氏)の初代であり、(加治田大島氏)の祖。大島光義の二男。母は武市通春の娘。妻は三澤氏。子に(大島光盛)、大島義唯、(大島義當)、(大島義益)[1]。
生涯
美濃国加茂郡加治田村に移住し、斎藤利治に仕え、各合戦で戦功。利治が本能寺の変で主君の織田信忠と討死後、斎藤利堯に仕える。
加治田・兼山合戦後、丹羽長秀に仕え、賤ヶ岳の戦いから功を上げる。
丹羽長秀死後は豊臣秀吉に属し馬廻りや使番として出世した。文禄4年(1595年)、美濃国池田郡で1000石を与えられた。
関ヶ原の戦いでは徳川家に味方する。1604年、父の遺領を兄弟で分け与え、自身は摂津国豊島郡、美濃国加茂郡・池田郡・武儀郡内の4710石を得る。大坂の陣にも従軍。
人物
関連書籍
大島行光
- 大島光政が所持していたと言われている名刀がある[3]。