三諸 大原(みもろ の おおはら)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。大納言・文室浄三の九男。官位は従四位下・(備前守)。勲位は勲三等。
経歴
孝謙朝の天平勝宝4年(752年)父・智努王と共に文室真人姓を与えられて臣籍降下する[1]。
桓武朝の延暦4年(785年)従五位下に叙爵し、右兵衛佐に任ぜられる。翌延暦5年(786年)(上総介)として地方官に転じる。延暦9年(790年)治部少輔に任ぜられ京官に復帰するが、翌延暦10年(791年)には早くも陸奥介兼鎮守副将軍として地方官に戻り、蝦夷征討の任にあたる。蝦夷征討における大原の具体的な活動内容は伝わらないが、勲三等の叙勲を受けていることから、大きな戦果を挙げた延暦13年(794年)の征夷副将軍・坂上田村麻呂の遠征軍に従軍した可能性もある。またこの間、延暦11年(792年)文室真人から三諸朝臣に改姓している[1]。
その後、常陸守の任期中に稲216,090束を横領していたことが発覚するが、延暦21年(802年)になって罪を免ぜられている(この時の位階は従四位下)[2]。延暦23年(804年)(播磨守)、延暦24年(805年)備前守と引き続き地方官を歴任した。
人物
官歴
『六国史』による。
- 天平勝宝4年(752年) 9月22日:臣籍降下(文室真人)
- 時期不詳:正六位上
- 延暦4年(785年) 正月7日:従五位下。正月15日:右兵衛佐
- 延暦5年(786年) 正月28日:右兵衛佐。8月8日:(上総介)
- 延暦9年(790年) 7月24日:治部少輔
- 延暦10年(791年) 正月22日:陸奥介。2月21日:鎮守副将軍
- 延暦11年(792年) 日付不詳:文室真人から三諸朝臣に改姓
- 時期不詳:勲三等。従四位下
- 延暦21年(802年) 正月21日:見常陸前司
- 延暦23年(804年) 2月18日:(播磨守)
- 延暦24年(805年) 10月11日:(備前守)
- 大同元年(806年) 11月9日:卒去(散位従四位下)