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多田 昌綱(ただ まさつな)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。祖父は甲斐武田家に仕え武田の5名臣に含まれる多田三八郎(満頼と言われていた武将)。
略歴
昌綱は大伯父にあたる土屋昌続(昌次)に養育された。武田氏の滅亡後は徳川氏に仕え、各地の合戦に従軍した。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに従軍し、天正19年(1591年)に九戸政実の乱に従軍した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は徳川秀忠率いる東山道軍に参加し、第二次上田合戦に加わった。
一族
多田一族は武田氏に従い、およその一族は天正3年(1575年)の長篠の戦いや天正10年(1582年)の天目山の戦いにて戦死したとされている。『寛永諸家系図伝』『甲陽軍鑑』『甲斐国志』に拠れば、多田昌治(昌春、三八郎の長男)と子の新蔵昌勝は長篠で戦死した。昌治の次男の久蔵昌綱は叔父の昌俊(三八郎の三男)の養子となっていたが、一族の角助昌繁らと田野で戦死したとされている。
多田昌俊に関しては、武田家を出奔して相模国の後北条氏に仕え、永禄10年(1567年)12月に武蔵国岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)で戦死した[1]とも、武田家滅亡に伴い殉死した[2]ともされている。