略歴
東京・新宿区市ヶ谷生まれ。父親は日本画家の増田正宗で、通二は4人兄弟の末っ子。世田谷区立守山小学校(現・世田谷区立下北沢小学校)から都立十中(現・東京都立西高等学校)に進み、堤清二と同級となる[1]。旧制府立高校から東京大学文学部哲学科へ進学。東大在学中の24歳のとき、上野の日本料理店「花家」の娘・黒岩静江と一緒に暮らすための収入源として、堤の父で、父親のパトロンでもあった堤康次郎に頼み、学生の身分のまま西武鉄道グループの親会社である国土計画の社長付き雑用係として働き始める[2]。
1952年に東大を卒業し、中学の恩師の配慮で東京都立第五商業高等学校の定時制の社会科教師になる[3]。その後、当時堤が店長をしていた池袋西武に出店した妻の実家の「花家」で働いたのち[4]、1961年に堤の招きで西武百貨店に入社。
1969年、系列の(池袋の丸物デパート)(現・池袋パルコ)の雇われ社長となり、池袋パルコを開業。また、東京ではファッションは平らな所では育たない。との持論の下、1973年には「すれちがう人が美しい 渋谷公園通り」のキャッチコピーを引っさげ、渋谷パルコをオープンさせる[5]。1984年パルコ社長、1989年に同会長を退任するまでに、札幌から熊本までの店舗ビルの設計に関わったほか[6]、ホテル経営にも参入した[7][注 1]。この他、山口はるみ、小池一子、石岡瑛子らを広告制作に起用し、パルコのイメージ戦略を成功へと導いた[8]。
パルコ退任後には、1994年にニキ・ド・サンファルの作品を展示するニキ美術館を那須に開館[1]。2007年、急性心不全により81歳で没[9]。同美術館は館長を務めていた妻の静江が没し、2011年に閉館。
著書
- 『パルコの宣伝戦略』(監修のみ。アクロス編集部執筆) アクロスSS選書、PARCO出版、1974年。(ISBN 4891940905)
- 『開幕ベルは鳴った―シアター・マスダへようこそ』(自伝) 東京新聞出版局、2005年。 (ISBN 4808308363)
脚注
注
- ^ 2009年6月、渋谷クレストンホテルなどの運営を行っていたパルコの完全子会社であったホテルニュークレストン及び資産は、HMIホテルグループに事業譲渡されている。
出典
外部リンク
- ニキ美術館
- 対談:郊外の歴史と未来像[2]パルコ、セゾン的なるものと現在のショッピングモールの違い - 10+1