報国丸(ほうこくまる)、(旧字体)表記報國丸は[2]、大阪商船が南アフリカ航路へ投入するために建造した貨客船で、報国丸級貨客船のネームシップ[3][注釈 1]。第二次世界大戦の太平洋戦争開戦前に日本海軍に徴用されて特設巡洋艦に改造され、太平洋戦争突入後は姉妹艦愛国丸と共に南太平洋や[4]、インド洋で通商破壊を行った[5]。南西方面での海上交通破壊戦では、潜水艦に対する補給艦の役割も担当した[6][7]。 インド洋通商破壊作戦に従事中の1942年(昭和17年)11月11日、ココス諸島沖合で連合国のコルベットとオランダ油槽船オンディナと遭遇[8][9]、敵艦の砲撃により報国丸に搭載中の魚雷が誘爆して沈没した[注釈 2]。
報国丸 | |
---|---|
報国丸。1940年撮影。 | |
基本情報 | |
船種 | 貨客船 |
クラス | 報国丸型貨客船 |
船籍 | 大日本帝国 |
所有者 | 大阪商船 |
運用者 | 大阪商船 大日本帝国海軍 |
建造所 | |
母港 | 大阪港/大阪府 |
姉妹船 | 愛国丸 護国丸 |
航行区域 | 遠洋 |
信号符字 | JCSN |
IMO番号 | 46833(※船舶番号) |
建造期間 | 668日 |
就航期間 | 880日 |
経歴 | |
起工 | 1938年8月18日 |
進水 | 1939年7月5日 |
竣工 | 1940年6月15日 |
最後 | 1942年11月11日被弾沈没 |
要目 | |
総トン数 | 10,439トン |
純トン数 | 6,134トン |
排水量 | 不明 |
全長 | 160.8m |
垂線間長 | 152.25m |
幅 | 20.2m |
深さ | 12.40m |
高さ | 26.21m(水面から1・4番マスト最上端まで) 17.98m(水面から2・3番マスト最上端まで) |
喫水 | 8.8m |
機関方式 | 三井製(B&W式)2衝程単働トランク型ディーゼル機関 2基 |
推進器 | 2軸 |
最大出力 | 19,427(BHP) |
定格出力 | 13,000BHP |
最大速力 | 21.148ノット |
航海速力 | 17ノット |
航続距離 | 不明 |
旅客定員 | 1等48名 特別3等48名 3等304名 |
乗組員 | 不明 |
1941年8月29日徴用。 高さは米海軍識別表[1]より(フィート表記) |
報国丸 | |
---|---|
1942年、シンガポール・セレター軍港での報国丸 | |
基本情報 | |
艦種 | 特設巡洋艦 |
艦歴 | |
就役 | 1941年8月29日(海軍籍に編入時) |
要目 | |
兵装 | 安式15cm砲8門(後に三年式14cm砲8門に換装) 九三式13mm対空機銃連装2基4門(後に九六式25mm連装機銃2基を増備) 六年式53cm連装水上発射管2基4門 |
装甲 | なし |
搭載機 | 九四式水上偵察機2機(1機は補用)(後に零式水上偵察機2機(1機は補用)に変更) |
その他 | 潜水艦用補給物資を搭載可能 |
徴用に際し変更された要目のみ表記 |
艦歴
太平洋戦争以前
大阪商船が南アフリカ航路へ投入する初めての新造船として計画、1940年(昭和15年)6月に完成した。優秀船舶建造助成施設の適用を受け、有事の徴用を前提として建造された。しかし、完成したものの実際に南アフリカ航海を行ったのは1度のみで、あとは専ら大連航路へと投入された。これは優秀船を近海で温存する方針だった政府の指令によるものである[注釈 3]
1941年(昭和16年)8月29日に海軍に徴用され、三菱長崎造船所で特設巡洋艦としての改装を受ける。主砲や魚雷発射管を増設すると共に、索敵のために九四式水上偵察機を搭載した[11]。機関員や航海関係者は、大阪商船時代の船員がそのまま徴集されて勤務していたという[11]。
日本海軍は10月15日付で「報国丸」と「愛国丸」で連合艦隊直属の第二十四戦隊(司令官(武田盛治)少将[12]、海軍兵学校38期[13])を編成した[14][注釈 4]。連合艦隊命令作第一号により、南太平洋で海上交通破壊を行なうことを命じられた[16]。仮装巡洋艦の運用に際し、第二十四戦隊の参謀は第一次世界大戦のドイツ帝国海軍が運用した仮装巡洋艦(ゼーアドラー、ヴォルフ)の活躍を参考にする[17]。Qシップに倣い、大砲や航空機は積荷にみせかけるため厳重にカンバスで包むなどのカモフラージュをおこなった[18]。敵船舶を欺瞞したり[19]、敵の巡洋艦をごまかすため、乗組員が変装するための婦人服も用意したという[20]。
11月2日、宇垣纏連合艦隊参謀長が報国丸を視察する[21]。 11月15日夕方[注釈 5]、連合艦隊に見送られて愛国丸とともに岩国を出撃し[23]、11月24日にジャルート環礁に到着[23]。上陸休息の後、11月26日に出撃する[4]。ツアモツ諸島東方に向かった[23][24]。
南太平洋
1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争開戦をマルケサス諸島南東海面で迎えた[25][注釈 6]。南緯14度52分 西経133度19分 / 南緯14.867度 西経133.317度地点であった[24]。真珠湾攻撃やマレー沖海戦の速報を傍受しながら[27]、第二十四戦隊はシドニーとパナマ間の大圏航路を捜索する[28]。12月13日、南緯22度38分 西経118度14分 / 南緯22.633度 西経118.233度の地点で東航する米貨物船ヴィンセント[29](Vincent 、6,210トン)を発見した[30]。同船は戦隊に警告を受けたがこれを無視して逃走しようとしたため、砲撃する[31]。ヴィンセントが降伏したのち砲撃で撃沈しようとしたが、積荷が木材のためになかなか沈まず[31]、雷撃により撃沈した[32]。38名の乗員を捕虜としたが[28]、SOSを発信して警報が発せられたのを受信[33]。警戒が厳重になる事が予想されたため、ニュージーランド寄りの航路の捜索に転じることとなった[34]。
12月21日に漂泊して整備を行い[35]、年明けの1942年(昭和17年)1月1日、水上偵察機を発進させて新たな獲物の捜索に乗り出した[36]。しかし報国丸の水上偵察機が行方不明となり、その捜索を行っていたところ、その水上偵察機が翌1月2日に米貨物船マラマ(Malama 、3,275トン[36])[37]を発見して爆撃を行う[38]。救援を求めるマラマの無線を傍受した報国丸と愛国丸は、その方向にむかう[39]。日没寸前にマラマを発見して同船を撃沈し、乗員38名を救助して捕虜とした[38]。「報国丸」は魚雷1本を発射し命中させている[36]。また、報国丸の水上偵察機は未帰還となった[36]。マラマはすでにSOSを発信しており、ラロトンガ島の受信局がこれを受信して警報が発せられたのを傍受し、ツアモツ諸島北西海域に移動する[40]。折りしも雨季に差しかかった事や、マーシャル諸島近海にアメリカ海軍の空母機動部隊や潜水艦の出現の兆候が見られたことにより[41]、トラック泊地への帰投に決した[42]。
2月4日にトラックに帰投後[14]、次期作戦のため日本本土に回航されるが、2月11日に九州南方でソ連貨物船キム(Kim、5,113トン[43])を臨検するも、疑わしい所がなかったため釈放した[44]。2月12日に大分港に到着し、日系人1名を含む[45]捕虜76名を大分航空隊に引き渡した後、2月14日に呉に帰投[44]。
武田少将(第二十四戦隊司令官)と両艦の艦長は連合艦隊旗艦の戦艦大和[46]を訪問し、連合艦隊参謀長宇垣纏少将(海兵40期)に作戦報告をおこなう[47]。宇垣参謀長は潜水母艦的な運用を前提に、インド洋やアフリカ方面またはパナマ方面での作戦を検討している[注釈 7]。
南方作戦に目途がつくと、大本営は3月1日付の大海指第60号で海上交通破壊作戦実施を強化するよう指示し、その中には「特設巡洋艦と潜水艦の共同作戦により、大西洋やインド洋における連絡や敵交通線の破壊擾乱を実施せよ」との項目もあった[49]。 3月9日、豊田副武呉鎮長官や武田少将は、連合艦隊司令部が開催した好き焼き会に出た[50]。3月10日付で第二十四戦隊は解隊され[51]、報国丸と愛国丸は連合艦隊付属の身分となった[52]。その後、報国丸と愛国丸は一時的に第六艦隊隷下の第八潜水戦隊(司令官(石崎昇)少将)付属となり、甲先遣支隊(伊10、伊16、伊18、伊20、伊30、報国丸、愛国丸)に所属した[53]。これは同戦隊のインド洋~アフリカ大陸方面での通商破壊に協力するためである[6]。報国丸、愛国丸の両船とも、この任務のために燃料や魚雷を潜水艦へ補給するための設備を設け、その改装期間中に主砲を3年式14cm単装砲に換装した。南太平洋での通商破壊の戦訓から、今次作戦より拿捕した船舶の回航班を乗せることになった[54]。
インド洋
3月下旬から4月初旬にかけて、潜水艦への洋上補給や曳航の訓練を実施した[55]。4月16日、艦長や甲標的搭乗員を含む通商破壊作戦関係者は戦艦大和に集まり、山本五十六連合艦隊司令長官から訓示を受ける[56]。報国丸以下各艦は呉を出発[注釈 8]、甲先遣支隊(日進、報国丸、愛国丸、潜水艦部隊)は同25日にペナン島に到着した[注釈 9]。報国丸と愛国丸を含む甲先遣支隊のペナン出撃は、4月30日であった[60]。同航の潜水艦と共にインド洋に進出し[61]、幾度か補給を実施した[62]。5月9日にオランダの油槽船ヘノタ(Genota、約15,000総トン)を発見[63]、拿捕する[64]。愛国丸より回航班が移乗し、タンカーは日本に回航された[60][65]。ヘノタは後に特設給油艦大瀬となった[66]。およそ一月後の6月5日、モザンビーク海峡南方でイギリスの商船エリシア(6,757総トン)を発見し、撃沈[注釈 10]。6月17日には、甲先遣支隊隊に補給を行った[注釈 11]。これからまた一月ほど経った7月中旬、ニュージーランドの貨物船ハウラキ(HAURAKI、7,113総トン)を拿捕した[69][注釈 12]。その予定どおり7月末に作戦を終了し[71]、ペナンに帰投した[72][注釈 13]。作戦中、明記した以外にも報国丸と愛国丸の両船は何度か潜水艦に補給を行っている[75]。魚雷や燃料の他に、豆腐や納豆など食糧も渡すことがあった[7]。
7月20日にペナンへ帰港後、両艦はシンガポールに移動して修理と整備をおこなった[76][77]。セレター軍港で25mm機銃と搭載機(補用機)の増備を行ったという[要出典]。
9月、「報国丸」と「愛国丸」、「清澄丸」は南東方面へ移される第三十八師団の輸送を命じられる[78]。3隻は9月23日にベラワン(メダンの外港)に到着[78]。第三十八師団を乗せると翌日出港し、10月6日にラバウルに到着した[79]。
その後、3隻はトラックに移動した[80][注釈 14]。「報国丸」と「愛国丸」はインド洋通商破壊作戦のため10月13日にトラックを出港し、10月23日にシンガポールに到着した[80]。
11月5日、報国丸(艦長今里博大佐[8]、海軍兵学校(45期))は再びインド洋で通商破壊を行うため、愛国丸(艦長大石保大佐[82][83]、海兵(48期))とともにシンガポールを出撃した[84][85]。報国丸が先任艦であり[86]、愛国丸はその指揮下で行動する[87][注釈 15]。
スンダ海峡を抜けインド洋に出たが[注釈 16]、報国丸と愛国丸の行動は敵潜水艦に察知され、インド洋には警戒態勢が敷かれた[88]。11月11日、ココス諸島近海の南緯20度05分 東経92度55分 / 南緯20.083度 東経92.917度で[8]、オランダのタンカー(オンディナ)(6,341総トン)とその護衛にあたっていた英連邦インド植民地海軍の掃海艇(バサート級コルベット)(ベンガル) (HMIS Bengal) を発見する[注釈 17]。オンディナは以前に拿捕したゼノタと同じくロイヤル・ダッチ・シェル系のラ・コロナ所属のタンカーであった。
報国丸はガソリンを満載した水上偵察機を搭載したまま、ベンガルとオンディナに近づいていった[89]。愛国丸に対しては「最初に護衛艦を撃沈し、次に商船を処理せんとす」と信号したという[90]。これに対しコルベット艦のベンガルは75mm(12ポンド)単装砲1基と機銃若干のみで、報国丸に比べれば遙かに劣勢な武装であったが、オンディナを逃走させるために前面に出て戦闘を開始、愛国丸と砲戦をおこなう[91]。 オンディナも逃走を図りつつ唯一の備砲であった4インチ(102 mm)単装砲を発射、報国丸に数発の命中弾を与えた[注釈 18][注釈 19]。報国丸のマストに命中した断片が水上偵察機のガソリンタンクを傷つけて火災が発生、引火した燃料が遊歩甲板から上甲板に伝わって大火災となる[91]。火災は魚雷発射管の魚雷にまで及び、誘爆が始まる[92]。オンディナの砲撃が魚雷発射管に命中し、魚雷が誘爆を起こしたという回想もある[93] そして船倉に集積されていた潜水艦補給用の魚雷が誘爆して致命傷となった[92]。大爆発が発生して艦尾が吹き飛び、報国丸は艦首を持ちあげて沈没した[92]。今里艦長は退艦の勧めを拒み、報国丸と運命を共にした[9]。約1時間ほどの交戦の末にベンガルに逃げられた愛国丸が沈没現場に戻り、救助作業をおこなう[94]。報国丸の戦死者は98名であった[8]。
報国丸生存者278名を収容した愛国丸では[注釈 2]、オンディナを拿捕して回航するか、沈めるかで判断に迷っていた[95]。大石保(愛国丸艦長)は敵機動部隊を警戒し、魚雷2本を発射してオンディナを処分した[96][注釈 20]。愛国丸はオンディナの沈没を確認せず、スンダ海峡にむかって速やかに移動した[96]。そして作戦を中止し、シンガポールに帰投した[注釈 21]。
なお放棄されたオンディナは、後に漂流中のところを脱出した同船乗組員が発見し、復旧に成功して帰投した[96]。日本側も、海外のメディアからその情報を入手している[注釈 22]。報国丸艦長の判断については後日問題視されたが、戦死したこともあり、発表されなかったという[98]。
艦長
同型艦
脚注
注釈
- ^ 本船以前にも、日露戦争の旅順港閉塞作戦で沈没した「報国丸」が存在する。
- ^ a b (昭和17年11月)[10]〔 11|1545|愛國丸、報國丸(aC)「ココス」島ノSW約80′ニ於テTc×1撃沈|印度洋|報國丸ハ護衛艇ト交戰之ニ火災ヲ起シ遁走セシメタルモ報國丸又舟尾ニ一彈命中火災ヲ生ジ之ガ爲舟尾ニ大誘爆ヲ起シ1538沈没 愛國丸ハ生存者二七八名ヲ収容一応作戰ヲ打切リ昭南ニ皈投スルコトヽナレリ 〕
- ^ 優秀船舶建造助成施設の適用条件の一つとして、政府による運航命令に従うことが定められていた。
- ^ 参謀として、(新谷喜一)中佐(坊ノ岬沖海戦時の第17駆逐隊司令)、伊藤春樹少佐などが任命された[15]。
- ^ (中略)日入りて、第廿四戰隊勇躍進發す。未だ、登舷禮式を行ひ見送る時機に達せず。本隊のハンター任務こそ、愉快なる一なり。勿論拙ければ自艦の運命に關するも、遠くの外洋に於て過ぎ行く好餌を索めて、敵の意表に出る、餘をしてやらしむれば、神出鬼没、多分の収穫を齎すの自信あり。[22](以下略) — 宇垣纏『戦藻録』16ページ(1941年11月15日)
- ^ バウンティ号の反乱で知られるピトケアン諸島南東約100浬地点であったとも[26]。
- ^ (中略)三時過第廿四戰隊歸着、武田少将司令官兩艦長と共に報告に來る。夕食を共にしたる後、新谷先任参謀の長い報告を聞く。いくら詳しくても得物は結局米商船二隻の撃沈のみなり。行動日數九十餘日、直接敵船捜索期間四十日少し商賣にならぬ話、今後當隊の使用は一考を要す。
潜水艦と協同、之に補給しつつ南阿印度洋方面、又は巴奈馬方面の通商破壊に任ぜしむるを可とするとともに、造水能力、燃料搭載量増加の要あり。又戰隊として司令部を置く必要も寡し、之等の諸件中央に申し込む。[48](以下略) — 宇垣纏『戦藻録』81ページ(1942年2月13日) - ^ 練習巡洋艦香取(第六艦隊旗艦)、報国丸、愛国丸、甲標的母艦日進、千代田、各潜水艦部隊[57]。
- ^ 甲先遣支隊の伊16、26日ペナン入港と記録した[58]。なおペナンで甲先遣支隊の潜水艦は水上機母艦日進に横づけし[58]、同艦から甲標的を移載した[59]。
- ^ 『戦史叢書54巻、南西方面海軍作戦』632ページでは、威嚇射撃に対し停船に応じなかった武装商船1隻を撃沈と記述する[67]。
- ^ 甲先遣支隊は特殊潜航艇をもってマダガスカルの戦いに参加、5月31日のディエゴ・スアレス奇襲作戦[68]から帰投してきたものである。
- ^ ハウラキは後に「伯耆丸/ほうきまる」と改名され海軍が徴用、トラック島空襲で愛国丸と共に沈没)[70]。
- ^ なお伊30は遣独潜水艦作戦のためドイツにむかった[73][74]。
- ^ (軍隊區分任務及配備)[81]〔 先遣部隊|附属|第六艦隊司令長官|各艦長|報國丸 愛國丸 清澄丸 護國丸|報國丸 愛國丸 清澄丸 六日EBニ編入 十二日「トラツク」進出 十三日 報國丸、愛國丸、印度洋方面交通破壊戰ニ從事ノ爲「トラツク」發昭南ニ囘航ノ上待機 清澄丸「トラツク」ニ於テ待機中ノ處三十一日印度洋方面作戰地ニ向ケ「トラツク」出撃/護國丸十四日EBニ編入 呉ニ於テ待機中ノ處二十一日呉發三十日昭南ニ進出待機 〕
- ^ 大石中佐は11月1日付で海軍大佐に昇進した[83]。
- ^ 護国丸はペナンに残った[85]。
- ^ 奇しくも第一次世界大戦で通商破壊で活躍したドイツ帝国海軍の小型巡洋艦エムデン (SMS Emden) が、オーストラリア海軍の軽巡シドニー (HMAS Sydney) に撃沈されたココス島の近海であった[5](ココス諸島海戦)。
- ^ 報国丸見張員の吉村金太郎(信号兵)によれば、ベンガルが逃走したので護衛艇に見放されたオンディナは白旗を掲げ、乗組員がボートに移動を始めていたという[92]。
- ^ 600メートルほど離れた位置にいた愛国丸からの観察によれば、報国丸に命中弾を与えたのはベンガルだったという[89]。
- ^ その際、海に飛び込んだオンディナ生存者に機銃掃射をおこなった[96]。
- ^ (タ)[97] 愛國丸 報國丸ハ昭南ニ於ケル整備ノ上十一月五日仝地発印度洋方面交通破壊ニ從事中ノ處十一月十一日一五四五「ココス」島ノ二二五度約三五〇浬ニ於テ大型油槽船(和蘭)ヲ攻撃之ヲ撃沈、哨戒艇一隻ニ火災ヲ生ゼシメ之ヲ撃退シタルモ報國丸亦被彈誘爆ノ爲火災ヲ生ジ遂ニ一七五二沈没スルニ至レリ從ツテ愛國丸ハ報國丸乗員救助ノ上昭南ニ歸投中ノ處十一月二十二日GF電令作第393號ニ依リ愛國丸 清澄丸 護國丸ハ一時南西方面艦隊ニ編入セラレタリ
- ^ ○報国丸、後部爆発、沈没ス(一一 - 一五三八「カサア28」)十一月十一日一四〇〇、20°-5′S 92°-55′Eニテ英哨戒艇一隻、蘭給油艦(Ondina 約8000T)ヲ発見。哨戒艇ヲ攻撃セル処、給油艦ノ一弾報国丸右舷ニ命中、予備魚雷誘爆大火災。哨戒艇ハ火災逃走。愛国丸ハ北方15kmニアリ、戦闘加入、給油艦ヲ撃沈ス。報国丸艦長以下98名戦死。生存者、愛国丸ニ収容、昭南ニ回航ス。〔行間書込〕外電ニヨレバ日本ノ艦ガ去ツタノデ一時避難シタ乗員ガ復皈シテ油槽船ハ皈港シタト云ツテヰル。最後ノ五分間不足ナリ。 — 高松宮日記、第五巻、239頁[8](昭和十七年十一月二十二日)
出典
- ^ Hokoku_Maru_class
- ^ 戦史叢書49 1971, pp. 40a-42第二十四戦隊の海上交通破壊戦
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, pp. 89–91恐るべき女王の正体
- ^ a b 変わりダネ軍艦 2017, pp. 92a-93通商破壊戦に仮装巡洋艦出撃す
- ^ a b 変わりダネ軍艦 2017, pp. 96–97仮装巡洋艦インド洋に現わる
- ^ a b 戦史叢書80 1975, pp. 379–383海上交通破壊戦、特殊潜航艇の攻撃
- ^ a b 伊16号通信兵日誌 1992, p. 133.
- ^ a b c d e 高松宮日記5巻 1996, p. 239.
- ^ a b トラック大空襲 1987, p. 33.
- ^ #S17.11.01-11.15経過概要 p.19
- ^ a b 変わりダネ軍艦 2017, p. 90.
- ^ 「昭和16年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第728号 p.49」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082700
- ^ 木俣『日本軽巡戦史』205ページ
- ^ a b 戦史叢書49 1971, pp. 40b-42.
- ^ 「昭和16年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第728号 」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082800 p.4新谷喜一中佐(補24戦隊参謀)、p.6伊藤春樹少佐(補参謀)
- ^ 戦史叢書80 1975, p. 06.
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, pp. 91a-92連合軍から恐れられたQ船
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, pp. 91b-92.
- ^ トラック大空襲 1987, p. 31.
- ^ 日本軍艦戦記 2014, pp. 213–214.
- ^ 戦藻録 1968, p. 11.
- ^ 戦藻録 1968, p. 16.
- ^ a b c 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766700, pp.9
- ^ a b 『第二十四戦隊司令部戦時日誌』C08030766500, pp.7
- ^ 戦史叢書80 1975, pp. 57–58太平洋正面作戦部隊
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, p. 93a第24戦隊(報国丸、愛国丸)第一次行動略図
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, pp. 93b-95英商船を撃沈
- ^ a b 『第二十四戦隊司令部戦時日誌』C08030766500, pp.8
- ^ 戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで、42ページでは「セント・ビンセント」
- ^ 『第二十四戦隊司令部戦時日誌』C08030766500, pp.8,41,42,50
- ^ a b 変わりダネ軍艦 2017, p. 94.
- ^ 木俣『日本軽巡戦史』207ページ
- ^ 『第二十四戦隊司令部戦時日誌』C08030766500, pp.8
- ^ 『第二十四戦隊司令部戦時日誌』C08030766500, pp.8,9
- ^ 『第二十四戦隊司令部戦時日誌』C08030766500, pp.45
- ^ a b c d 木俣『日本軽巡戦史』208ページ
- ^ 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766900, pp.43
- ^ a b 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766700, pp.11
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, pp. 95–97怪飛行機の勇躍
- ^ 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766700, pp.11,12
- ^ 戦史叢書80 1975, pp. 169–173情勢緩和の誤判断とマーシャル被攻撃
- ^ 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766700, pp.12
- ^ 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766900, pp.4
- ^ a b 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766700, pp.13
- ^ 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766900, pp.2
- ^ 戦藻録 1968, p. 80(2月12日)聯合艦隊旗艦を大和に變更す。
- ^ 木俣『日本軽巡戦史』210ページ
- ^ 戦藻録 1968, p. 81.
- ^ 戦史叢書80 1975, pp. 207–208海上交通破壊作戦強化指示
- ^ 戦藻録 1968, p. 92.
- ^ 「昭和17年3月10日(発令3月10日付)海軍辞令公報(部内限)第824号 pp.13,15」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084400
- ^ 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766700, pp.10
- ^ 戦史叢書54 1972, pp. 620–623豪州、印度洋方面海上主戦力の撃破を企図
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, pp. 98a-99われ油槽船ゼノタ号を拿捕せり
- ^ 伊16号通信兵日誌 1992, pp. 80–82.
- ^ 戦藻録 1968, p. 104四月十六日 木曜日 雨 第二次特別攻撃隊の出陣
- ^ 伊16号通信兵日誌 1992, pp. 84–85.
- ^ a b 伊16号通信兵日誌 1992, pp. 91–92.
- ^ 戦史叢書54 1972, pp. 623a-625甲先遣支隊、マダガスカル島方面に進出
- ^ a b 戦史叢書54 1972, p. 623b.
- ^ 伊16号通信兵日誌 1992, p. 96.
- ^ 戦史叢書54 1972, p. 624.
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, pp. 99–102まずオランダ油槽船を捕う
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, pp. 102–103.
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, p. 104(ゼノタ号回航図)
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, pp. 105–107大瀬すなわちゼノタ号
- ^ 戦史叢書54 1972, p. 632.
- ^ 戦史叢書54 1972, pp. 625–626甲標的の発進
- ^ 伊16号通信兵日誌 1992, pp. 149–150(7月14日)
- ^ トラック大空襲 1987, pp. 205–206哀れなる運命〈― 海軍運送船・伯耆丸〉
- ^ 戦史叢書54 1972, p. 633.
- ^ #S17.05六艦隊日誌(2) pp.3-4(第8潜水戦隊項目より)〔 甲先遣支隊ハ印度洋ニ於テ作戰中ノトコロ報國丸 愛國丸七月二十日「ペナン」着昭南ニ於テ整備補給ニ從事(以下略) 〕
- ^ 戦史叢書54 1972, p. 636.
- ^ 戦史叢書54 1972, p. 672「伊三十潜」の派遣
- ^ 伊16号通信兵日誌 1992, p. 104.
- ^ #S17.05六艦隊日誌(2) pp.15-16〔 四.参考 (一)麾下艦船ノ行動(香取其ノ他)(1942年7月分) 〕
- ^ #S17.05六艦隊日誌(3) p.7(第8潜水戦隊項目)〔 報國丸、愛國丸前月二十七日以来昭南ニ於テ次期作戰準備中 〕、p.23〔 四.参考 (一)麾下艦船ノ行動(香取其ノ他)(1942年8月分) 〕
- ^ a b 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』202ページ
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』202ページ、『南東方面海軍作戦<2>ガ島撤収まで』163ページ
- ^ a b #S17.05六艦隊日誌(5) p.23〔 四.参考 (一)麾下艦船ノ行動(香取其ノ他)(1942年10月分) 〕
- ^ #S17.05六艦隊日誌(5) p.6
- ^ a b c 「昭和17年8月25日(発令8月25日)海軍辞令公報(部内限)第928号 p.4」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086700
- ^ a b 「昭和17年11月1日(発令11月1日付)海軍辞令公報(部内限)第974号 p.4」 アジア歴史資料センター Ref.C13072087700
- ^ #S17.05六艦隊日誌(5) pp.50-51〔 四.参考 (一)麾下艦船ノ行動(香取其ノ他)(1942年11月分) 〕
- ^ a b #S17.05六艦隊日誌(5) p.44(軍隊區分任務及配備)〔 先遣部隊|附属|第六艦隊司令長官|各艦長|愛國丸 報國丸 護國丸|愛國丸、報國丸、護國丸 昭南ニ於テ整備中ノ處五日愛國丸、報國丸印度洋方面作戰地ニ向ケ昭南出撃 十一日海戰ニヨリ報國丸沈没/愛國丸十六日昭南ニ歸投整備ニ從事/護國丸六日「ペナン」ニ進出待機中ノ處十七日昭南ニ歸投整備ニ從事 〕
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, pp. 109a-110報国丸、危険な突進を開始
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, p. 114a先任艦長指揮のもとに
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, p. 109b.
- ^ a b 変わりダネ軍艦 2017, p. 110b.
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, pp. 110a-112不運は不運を呼ぶものか
- ^ a b 変わりダネ軍艦 2017, p. 111.
- ^ a b c d トラック大空襲 1987, p. 32.
- ^ 日本軍艦戦記 2014, p. 216.
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, pp. 112–114敵のタンカーに魚雷命中
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, p. 114.
- ^ a b c d 変わりダネ軍艦 2017, p. 113.
- ^ #S17.05六艦隊日誌(6) p.24(経過概要)
- ^ 変わりダネ軍艦 2017, p. 114b.
- ^ 「昭和16年9月20日(発令9月20日付)海軍辞令公報(部内限)第716号 p.45」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082100
- ^ 『日本海軍史』第9巻、595頁。
- ^ 『日本海軍史』第9巻、679頁。
- ^ 「海軍少将今里博賞与ノ件外一件(海軍中将桜井忠武賞与ノ件)(国立公文書館)」 アジア歴史資料センター Ref.A04018713800
参考文献
- 石川幸太郎、石川純子『潜水艦伊16号 通信兵の日誌』草思社、1992年11月。ISBN (4-7942-0486-8)。
- 宇垣纏、成瀬恭(発行人)『戦藻録 明治百年史叢書』原書房、1968年1月。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第9巻、第一法規出版、1995年。
- 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年
- 木俣滋郎『第二次大戦海戦小史』朝日ソノラマ〈文庫〉、1986年。
- 塩山策一ほか『変わりダネ軍艦奮闘記 裏方に徹し任務に命懸けた異形軍艦たちの航跡』潮書房光人社、2017年7月。ISBN (978-4-7698-1647-8)。
- (88-97頁)当時第二十四戦隊参謀・海軍中佐伊藤春樹『奇略と名手の忍術軍艦 愛国丸と報国丸 仮装巡洋艦二隻を擁し通商破壊作戦に参入した二十四戦隊の航跡』
- (98-114頁)当時「愛国丸」乗組・海軍少佐安永文友『特設巡洋艦二隻のインド洋通商破壊戦 拿捕船回収班が綴るオランダ油槽船回航と報国丸最後の周辺』
- 『世界の艦船』535号/小林義秀「報国丸クラスの軌跡」、1998年。
- 『世界の艦船』535号/「貴重な遺影で綴るOSK報国丸級」、P135-140、1998年。
- 高松宮宣仁親王 著、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第五巻 昭和十七年十月一日~昭和十八年二月十一日』中央公論社、1996年11月。ISBN (4-12-403395-8)。
- 半藤一利 編「知られざる海戦録」『太平洋戦争 日本軍艦戦記』実松譲 訳、文藝春秋〈文春文庫〉、2014年7月(原著1985年)。ISBN (978-4-16-790153-0)。
- (212-217頁) 中島栄一(報国丸看護兵曹)『知られざる海戦録(1) 恐怖のQシップ報国丸の隠れた栄光 通商破壊作戦●1941.11.3~1942.11.11」
- 兵頭喜明「報国丸級の船影を追って その構造と装飾」『世界の艦船』535号、1998年。
- 福井静夫 『日本補助艦艇物語』光人社、1993年。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦<2> ガダルカナル・ブナ作戦』 第28巻、朝雲新聞社、1969年7月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪還作戦開始まで』 第49巻、朝雲新聞社、1971年9月 。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』 第54巻、朝雲新聞社、1972年3月。
- 防衛庁防衛研修所戦史部『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』戦史叢書第62巻、朝雲新聞社、1973年
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<2> ―昭和17年6月まで―』 第80巻、朝雲新聞社、1975年2月 。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで』 第83巻、朝雲新聞社、1975年8月 。
- (写真・文)吉村朝之<水中カメラマン>「第一章 衝撃の世界」『トラック大空襲 海底写真に見る連合艦隊泊地の悲劇』光人社、1987年3月。ISBN (4-7698-0337-0)。
- (29-33頁) 姉妹艦と共に〈 ― 愛国丸、報国丸をみとる 〉
- アジア歴史資料センター(公式)
- 『昭和17.10.1~昭和18.1.31 太平洋戦争経過概要 その4/17年11月1日~17年11月15日』。Ref.C16120634200。
- 『昭和17年5月15日~昭和17年12月31日第6艦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030020900。
- 『昭和17年5月15日~昭和17年12月31日第6艦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030021000。
- 『昭和17年5月15日~昭和17年12月31日第6艦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030021100。
- 『昭和17年5月15日~昭和17年12月31日第6艦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030021200。
- 『昭和17年5月15日~昭和17年12月31日第6艦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030021300。
- 『昭和17年5月15日~昭和17年12月31日第6艦隊戦時日誌(6)』。Ref.C08030021400。
- 第二十四戦隊司令部『自昭和十六年十二月一日至同年十二月三十一日 第二十四戦隊司令部戦時日誌』(昭和16年12月 第24戦隊司令部戦時日誌(1)(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030766500、C08030766600
- 第二十四戦隊司令部『自昭和十六年十二月八日至昭和十七年二月十四日 通商破壊隊戦闘詳報第一号 (第二十四戦隊戦闘詳報第一号)』(昭和16年12月 第24戦隊司令部戦時日誌(3)(4)(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030766700、C08030766800、C08030766900
関連項目
外部リンク
- 1/700戦時輸送船模型集:報国丸 - 岩重多四郎による戦時状態の再現模型