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生涯
弘化4年(1847年)10月2日、沼田藩の第10代藩主・土岐頼寧の死去に際し、その養嗣子となって跡を継いだ(正室の益子は9代藩主・土岐頼功の三女)。同年10月15日、12代将軍・徳川家慶に拝謁する。同年12月16日、従五位下・美濃守に叙任する。後に山城守、和泉守に改める。文久3年(1863年)11月15日、学問所奉行に就任する。元治元年(1864年)7月6日、若年寄格学問所奉行となり、同年9月28日、若年寄となる。(第二次長州征討)にも幕府方に属して参戦している。
慶応元年(1865年)12月29日、若年寄を退任する。慶応3年(1867年)4月16日、病気を理由に家督を長男の頼知に譲って隠居し、明治6年(1873年)5月5日に東京で死去した。享年48。墓所は品川東海寺の大山墓地。
系譜
父母
正室
子女