歴史
創建の由来
創建の由緒は不詳であるが、長堀川畔の土佐藩蔵屋敷に古くから鎮座していた。天正年間(1573年 - 1593年)の創建とも、明和7年(1770年)に伏見稲荷を勧請したものとも伝わる。享保2年(1717年)、藩主山内豊隆が社殿を造営して蔵屋敷の鎮守社とし、一般の参拝を許した。以来、山内氏は参勤交代で大坂を通る際には必ず当社に参拝し、社殿の修繕は藩費で行われた[1]。
堺事件との関わり
慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いの後、大坂町奉行に代わり堺を警備していた土佐藩兵と測量後上陸していたフランス帝国兵との間に起こったフランス兵の殺傷事件(フランス兵11名死亡)である堺事件の折、明治政府がフランス公使ロッシュの要求を容れて20名が切腹することになり、29名の者が、当社で籤を引いて決め、翌日堺の妙国寺へ護送された。フランス兵の死亡人数と同じ11名が切腹したところで、フランス側から死刑執行中止の要請があり9名は助命された[2]。
岩崎弥太郎への譲り渡しと造替
明治初年、土佐藩蔵屋敷とともに当社は岩崎弥太郎に譲り渡された。岩崎弥太郎は当地で事業を営み、三菱財閥の発祥の地となった。岩崎弥太郎によって社殿の造替が行われ、後に郷社に列格した[3][1]。以来現在まで三菱グループの守護神となっている。
戦争の被害と再建
太平洋戦争中の1945年(昭和20年)3月13日・14日に行われた第1回大阪大空襲で社殿が焼失する。灯籠などが焼けこげているのはその名残である。その後、1993年(平成5年)春、松尾橋梁株式会社による寄進により、再建を果たした[1]。
祭神
境内
- 本殿 - 1993年(平成5年)春再建。
- 拝殿 - 1993年(平成5年)春再建。
- 奥の院
- 源八社
- 大黒社
- 社務所
- 若宮神社 - 芸事上達を祈り堀江芸妓が参拝した[4]。
- 玉根社
- 磐居社
- 石宮神社 - 船舶関係者に信仰が篤い海上安全の守護神を祭る[4]。
神社の東側に岩崎弥太郎の邸宅跡を示す碑がある。神紋には三菱グループを表す「スリーダイヤ」が入っており、三菱グループを構成する多くの企業が神社を囲む玉垣を寄進している。第12代横綱陣幕久五郎が寄進した狛狐が現存する。
土佐稲荷神社と桜
土佐稲荷神社では桜が名所である。境内は江戸時代より桜の名所としても有名で、摂津名所図会大成によると、「近来社頭に桜を多く植つらねてより花のころは一しほに参詣群れをなせり」とある[5]。境内には宝井其角の「明星や桜定めぬ山かつら」の句碑がある。境内の桜は大阪大空襲で全焼したが、戦後、若木が植えられ、桜の名所として復活した。
現地情報
- 所在地
- 交通アクセス
脚注
出典
外部リンク
- 土佐稲荷神社(公式ウェブサイト)
- 三菱グループについて - 三菱人物伝 - 岩崎彌太郎物語 - 藩邸と土佐稲荷
- 日本郵船 航跡 第47回 土佐稲荷
- 土佐稲荷神社(大阪市コミュニティ協会)