和田 通興(わだ みちおき)は、戦国時代の武将。河野氏の家臣。(和田通俊)の孫。伊予国(岩伽羅城)(いわがら)主。
河野氏の家臣団内での抗争に関わっていたことが判明しており、(小手滝城)主・(戒能通運)に討ち取られた(剣山城)主である(黒川通俊)の子・(通堯)は通運を恨んでいた。その後、通堯は(大除城)主・(大野利直)と共同で通運を攻めたが、通興は通運を援助したため、通堯の攻城は失敗に終わった。
天文23年(1554年)に勢力を拡大した通興は主君・河野通宣に従わなくなったため、通宣は(棚居城)主・平岡房実に通興討伐を命じ、岩伽羅城を攻撃させた[2]。岩伽羅城は落城し、通興は山ノ内へ逃げたがそこで自害して果てた[2]。このことは(村上吉継)(来島氏の家臣)が高野山へ送った書状にも記載されている(高野山上蔵院文書)。
後に一族とされる(和田通勝)が召し出され、通宣によって岩伽羅城を与えられている。