呉白龍(オ・ペンリョン、 1913年 - 1984年)は、朝鮮民主主義人民共和国の軍人。1970年代初頭に、満州での抗日パルチザン活動の様相を記した手記『司令部をたずねていく途上で』を記した。長男は呉琴鉄(上将、空軍司令官・人民軍副総参謀長を歴任)、次男は呉鉄山(上将、海軍政治副司令官)。
生涯
東北抗日聯軍に参加[1]。日満軍警の討伐でソ連に退避するが、第88特別旅団に編入されずにソ連軍偵察部隊の要員として活動した[2]。偵察・工作活動で成果を上げ、とくに朝鮮北部の有力人士を連れ帰る任務では、ソ連軍が連れ帰った人物の地位や職務の重要性に注目し、朝鮮国内の協力者として訓練させ、呉白龍は機密保持のため一時中央アジアの朝鮮人コルホーズに隔離された[3]。1949年12月、38度線警備第1旅団長に就任[1]。1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発すると東海岸に侵攻した((国境会戦))。第1警備旅団が改変され、第8師団長。
1958年2月、中将進級と同時に内務省副相兼護衛総局局長[1]。1968年7月、大将進級[1]。
1984年4月6日、死亡[4]。
略歴
- 1913年:朝鮮の咸鏡北道会寧市で誕生。
- 1933年:満州にて金日成の朝鮮人パルチザン部隊に参加。
- 1937年:第1路軍第2軍第6師警衛連連長。
- 1938年:東北抗日連軍第2方面軍警衛連連長。
- 1939年:東北抗日連軍第2方面軍第7団団長。
- 1940年:東北抗日聯軍第2方面軍第1中隊部長。
- 1942年:ソ連軍偵察要員。
- 1948年:朝鮮民主主義人民共和国成立。
- 1949年:内務省第1警備旅団長。
- 1950年:朝鮮戦争勃発。朝鮮人民軍第8師団長。
- 1951年:第6軍団第23陸戦旅団長[5]。
- 1953年:朝鮮人民軍第七軍団副軍団長に就任、少将に昇進。
- 1967年:民族保衛省の副相を担当、中将に昇進。
- 1969年:朝鮮労働党中央軍事委員会副委員長を担当、(工農赤衛隊)総司令にも就任。
- 1972年:中央人民委員会傘下の国防委員会副委員長を担当、大将に昇進。
- 1980年:朝鮮労働党中央政治局の委員に当選、軍事委員会委員を務める。
出典
参考
外部リンク
- 『司令部をたずねていく途上で』における金日成の記述(Brain News Network)