呉市街空襲 (くれしがいくうしゅう)は、太平洋戦争末期の1945年7月1日から7月2日にかけて、広島県呉市を襲った空襲である。呉市史上最悪の火災が発生し、およそ2000人が犠牲となった[1]。単に呉空襲とも呼ばれる[2]。
概要
1945年、広島県呉市は、3月19日の呉軍港空襲をはじめとして、5月5日(広工廠)、6月22日(呉海軍工廠)、7月1 - 2日(呉市街地)、7月24日(呉軍港)、7月28日(呉軍港)と、6回にもわたって空襲被害を受けている。しかし、なかでも7月1日夜半から2日未明にかけて発生した焼夷弾攻撃は、特に甚大な被害をもたらした。呉市はほぼ全域が火の海と化し、1949人が死亡した(海軍関係は含まず)。
B-29部隊は、6月中旬から中小都市の空襲を開始したが、呉市はその重要な目標の一つとして選ばれ、B-29部隊の「最大努力」による爆撃を受けた。7月2日0時2分、マリアナ諸島から飛来したB-29が第一弾を投下[3]。その後次々と焼夷弾が投下された。この空襲で、約337haが焼失し、12万5千もの人が家を失ったという[1]。
脚注
関連項目
- この世界の片隅に(この世界の片隅に (映画)) - 呉市街空襲を描いたエピソードがある。