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名倉 松窓(なくら しょうそう、文政4年(1822年) - 明治34年(1901年)1月27日)は、幕末明治期の幕臣、漢学者、儒学者、大陸浪人、官吏。
明治以後は信敦と名乗った。字は先之、通称重次郎、別号に予何人。 信敦(のぶあつ)の名は、柳原前光から贈られた詩に由来する。
幕末期から日清修好条規まで日清外交の実務に携わった生粋の中国通である。
経歴
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遠江国浜松藩(現・静岡県浜松市)の藩士。父の名は名倉信芳。父の信芳は浜松藩主・井上正直に従い奥州に入った。
江戸に出て佐藤一斎に師事、昌平坂学問所で学び、窪田清音から長沼流 兵学を習得する。 弘化2年(1845年)に藩校・(克明館)の教授となり、遣唐使が廃止されて以降、千年ぶりに行われた幕府使節団の一人として文久2年(1862年)に幕府「千歳丸」で上海を訪れ、長州藩士・高杉晋作や薩摩藩士・五代才助らと同船した。
更に文久3年(1863年)冬、(池田筑後守)の一行に従いフランスに赴く。他、南京や台湾に紀行した。長沼流の兵学を学んだことから、討幕論者としての見識を広め、戊辰戦争の際は浜松藩兵の指揮者として甲府鎮護にあたる。
長く支那に滞在していた名倉は、未だに郡県制ではなく封建制をとっている日本は、夏・殷・周の三代の頃にあたる、遅れた制度と文明しか持っていないとの見解を持つようになった。廃藩に伴い、上京して慶應義塾に入学。明治3年(1870年)柳原前光が日清修好条規交渉に渡清したときに随行。李鴻章の手紙に福澤諭吉の『世界国尽』を紹介した。元老院書記生修史館掌記となり、外交官として支那を漫遊。
晩年、旧友の劉銘伝に招かれて、5度目の外遊として台湾に渡る。交友関係も(陳汝欽)、(侯儀)、楊溥、(方望郷)、と幅広い。
著書
- 『三次壮遊録』
- 『海外日録』
- 『支那聞見録』
- 『滬城筆話』
- 『滬城筆話拾遺』
- 『航海日録』
- 『航海外日録拾遺』
- 『海外壮遊詩』
- 『続周易考』
- 『日本紀事』
- 『遠江紀行』
- 『刀陣提要』
- 『実操摘要』
外部リンク
- 名倉信敦- 台灣大百科全書
- 第六回中国近代外交史研究会
参考文献
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- 丸山信編『人物書誌大系 30 福沢諭吉門下』日外アソシエーツ、1995年3月、(ISBN 4816912843)