戦国時代の人物 (日本) > 戦国武将 > 吉田重賢
生涯
寛正4年(1463年)、近江国蒲生郡河森(川守)(現滋賀県蒲生郡竜王町川守)で誕生。
重賢は幼少時に(逸見流)・武田流・小笠原流 [1]などの古流弓術を学び、続いて明応年間頃に日置正次(弾正)が創始した射法を修めたとされる。
日置弾正の射法は従来のものに比べ革新的であったことから、弾正以前の流派を「古流」、弾正以降を「新流」という[2]。 この流れは重賢の子孫らにより大いに世に広まり、日置流または吉田流と称され、重賢は吉田流開祖とされた。近世以降の弓術流派はほぼ全てこの日置・吉田流の系統に属する。
なお日置弾正に関しては、その存在を含め不明な点が多く、実在説の他、重賢による創作説、正次・重賢同人説などがある。
吉田氏について
「吉田氏」も参照
吉田氏は宇多源氏(近江源氏)の佐々木氏一族で、佐々木秀義の子(吉田厳秀)を始祖とする家系である。戦国時代当時、吉田氏は六角氏の重臣であった。現在の竜王町付近が領地であったとされ、同地の川守付近の八幡神社は居城の川守城跡と伝わる。周辺には吉田氏の事跡が伝わる地が多い。
寛政重修諸家譜の吉田氏系図((印西派)宗家の旗本吉田氏が提出したもの)には重賢について、「佐々木家に属し、旗下七人のうちたり。日置弾正豊秀にしたがひて射芸を学ぶ。豊秀が門人多しといへども、出雲守ひとりその妙をうるがゆへに、豊秀家伝をつがしむ。これより世こぞりて吉田流と称す。子孫にいたるまで代々相伝てその術を教授す。」 とある(豊秀は日置弾正の別名。)。
その他
重賢の法名に因む「道宝」という弓具がある。これは弓の弦の中仕掛(矢の筈を番(つが)える部分に麻などを巻き補強した部分)を作る際、巻き付ける繊維を締めるための小さな拍子木状の物である。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
- 竜王と弓道 日置吉田流弓術(竜王町ホームページ)