由緒
吉田天神社は、往古、菅公の神像が鹿菅(しかすが)の海辺に漂っていたのを里人が石塚(豊橋市花田町)の辺りに小社を建てて祀っていたが、天文元年(1532年)岩崎玄朝が奉祀したことに始まる。「三州吉田領神社仏閣記」(元禄6年)に、羽田村「新銭町、天神、祢宜岩崎石見長右衛門、右境内弁財天」とある。
寛永8年(1631年)吉田(豊橋)城主松平忠利は社殿を造営し、延宝2年(1674年)吉田城主小笠原長矩は(拝殿)・楼門を建造した。明和7年(1770年)彦根藩儒竜公美の筆になる扁額、天保11年(1840年)渡辺崋山などが揮毫した拝殿の格天井の「月に雁」の図(鈴木三岳の代筆)などは、昭和20年(1945年)6月の空襲 によってことごとく焼失した。昭和30年(1955年)戦災復興土地区画整理により社地を移して白山比咩(はくさんひめ)神社に相殿合祀遷座した。
境内
入口
手水舎
臥牛像
筆塚
さざれ石
参考文献
- 豊橋百科事典編集委員会--編 『豊橋百科事典』 豊橋市文化市民部文化課、2006年、767頁。